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姿勢を正させる

教室でノートに文字を書かせていると、背中が丸まりまるで寝ているような姿勢になっている子がいます。
そんな子に、今までどう指導されてきたでしょう。
目が悪くなるから姿勢を正すよう注意したことはないでしょうか。

あるいは、座りながらいすを斜め後ろに傾けて、シーソーのようにバランスをとっている子がいます。
そんな子には、危ないからきちんと座りなさいと指導されたことはないでしょうか。

これらの指導の仕方には、全く、他を意識させる観点も師弟の一線を引く観点もありません。

目が悪くなったり、危なかったりするのは事実ですが、それ以前に、教わる側として、先生に失礼な態度であるとの指摘が必要です。
いすに浅く腰掛けて斜めにもたれるような座り方、足を組む、貧乏揺すりをする、あご肘をつく。
すべて子供たちのとる様々な態度の悪さに対して、個別に逐一理由をつけて指摘しなくても、周囲や特に先生に対して失礼であるとの観点をしっかり教えることによって、指導の普遍化を図れるのです。

他を意識させる観点が抜け落ちていると、子供たちは身勝手な行動をとるようになります。
師弟の一線を引く観点が抜け落ちると、子供たちは平気で先生を乗り越えようとしてきます。



残念ながら乗り越えられてしまった経験の浅い先生からの相談事を紹介します。
それは、座り方など授業態度について、何度注意しても改まらないがどうしたものか、という相談でした。その先生は、腰を深くかけなさいや、丸まった背中を起こしなさいなど具体的な注意を繰り返していたそうですが、一向に改まらず、挙げ句の果てに机の横にはみ出して足を投げ出すようになってしまったとのこと。
その様子を、いくら注意しても態度を直してくれないのですと相談されたのです。

この相談事に対する解答の要点は三点。

まず「直してくれない」という表現に、先生が子供に対して態度を改めてほしいという依頼の気持ちが強くにじみ出てしまっていること。
次に、注意を繰り返してしまっていること。
さらに、そもそも注意をすることによって、善悪の価値判断を子供から奪ってしまっていることが指摘できます。


本来は、足を投げ出すような態度についてそれでよいのかと問い、子供自身に考えさせ答えさせる。
たったこれだけでよいのです


子供には考える力が備わっていますから、よほどの反抗心を露わにしない限り、良くないと答えるでしょう。
先生は「では、そうしなさい」と毅然とした態度で応じるだけです。

人は自ら考え、自ら決定したことしか実行しません。
もちろん、態度を直してほしいのではなく、本人の責任によって直さねばならないのです

それでも、繰り返すならば、自分で言ったことも実行できないのかと追及すればよいだけです。
先生から無理矢理押しつけられた善悪の判断ではなく、自らの判断なのですから、反抗のしようがありません。


こんな困った状態に陥らないために、

他を意識させる観点から、全員がしたらどんな光景が見えるかを考えさせ、自らの身勝手さに気付かせ
師弟の一線を引く観点から、教える教わる立場の違いに気付かせ


周囲にも特に先生に失礼だという感覚を育てることが不可欠だと思います。
 
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仮定形で叱る

前回では、担当学年以外の子供たちを指して、担当外という言葉や、学年の違う先生という言い方で、担任等と比べれば指導が入りにくい状況を説明してきました。
学校は、学校ぐるみで子供たちを育くむ場ですから、違和感を感じた読者の方もいらっしゃると思います。
しかし、現場に身を置く者として、理想は持ちつつも、現実に即した対応の必要性は身にしみてわかっているつもりです。

この項で述べることは、もしかしたら逃げ腰と受け取られるかもしれません。
しかしながら、なかなか難しい現実との狭間で、直球勝負の指導が、素直に受け入れられるとは限らない状況に鑑みて、この手法をご紹介します。
仮定形でと言うのは、その言葉通り、「もし~ならば」という注意の仕方です。

時として、人間関係が構築できていない担任外の子供たちが取る行動は、その背景や真実を見抜くことが出来ないものです。
いつも指導されていることなのか、全く指導されたことがないことなのかから始まり、ただふざけあっているだけなのか、いじめの延長なのかという深刻な場面まで。
見過ごすことは出来ないが、かといって、強く指導すれば反発されかねない。
反発されて、こちらが折れる結果になってしまえば、もしもそれがいじめの延長という深刻な場面ならば、いじめそのものを認める結果になってしまう。
そこを、緊急避難的に仮定形でかわしながら、その場面の収拾を図るのです。

いじめが疑われる場面ならば、反発されようが関係なく、強く出るべきですので、ここでは、専科授業等で教室移動をする際、廊下を何やらもめながら騒がしく歩いてくる姿で考えてみます。
もしかしたら、騒がしくしていると見えている子供は、その集団のもめ事を仲裁しているのかもしれません。
しかし、単に身勝手な行動をしているだけかもしれません。
そんなときの、「もしも、君がただ単に騒いでいるのであれば~」という形での注意です。

ただ単に、騒いでいたのであれば、素直にその注意を聞き入れるでしょうし、何か理由があったのなら、ただ単に騒いでいるわけではないことを説明するでしょう。
頭から、騒いでいると決めつけてしまうと、騒いでいるのではない、正当性があるのだという反発で、その集団のもめ事の火種に油を注ぐことになりかねません。
仮定形で注意しても、同じく反発してくる場合はありますが、そのときこそ、「だから、もしも~と、言っているのだ」と反発そのものに、正当性がないことを諭してやればよいのです。


また、生活指導上の指導場面で考えてみます。学校の現場には様々な生活指導上のきめ細かな決まりが古くから引き継がれるようにしてあるはずです。
たとえば、服の色合いや髪の毛の色合いなどですが、そういう身だしなみに関する決まりごとは、外見を縛られることに慣れていない近年の保護者世代の反発を買うことがあります。
外見に対する細かすぎる規定をなくしてしまえばよいだけのことですが、現場では現実的な本音より建前論が優先される場合も多いものです。
そんな、保護者と指導者側の価値観の違いが浮き出てしまうような場面で、この仮定形を使って指導するのです。

私が知っている事例では、地味な色合いの靴下を推奨している決まりがある学校で、明るい色合いを履いている子に担任外の先生が指導をしたところ、担任の先生には何も言われていないのにどうして関係のない先生に叱られなければならないのかという抗議があり、対応に苦慮したというものがあります。
こんな場面で、「もし、君が該当する決まりを知っているのに履いているのであれば~」と緩衝材をひとつ挟み込むことによって、知っているのにやぶることはいけないという決まりの本質的な問題として注意を促すことができますし、決まりは認識している以上守るべきだという道徳的価値観の根幹について抗議の余地はないでしょう。

1度は担任から指導されていること


そうは言っても、なかなか指導を徹底させることは至難の業です。
いくら検証を続けてもなかなか行動が改まらない子供や、検証されている場面、見張られていると感じる場面でのみ、形だけ繕うように態度を良くしている様子がうかがえる子供など、集団としての行動に、及第点を与えるまでには時間がかかります。
学校という狭い社会の中ですら、及第点を与えるには、いつも関わり深く指導をしている担任や、学年の受け持ち以外の先生方の協力は不可欠です。
指導初期の子供たちは、担任や学年担当の先生以外を関わりないと断定し、その先生に見られていようがいまいが、利己的な行動を取ろことが多いものです。

そのような受け身な姿に、警鐘を鳴らすためには、関わりのない先生をなくすこと。
言い換えれば、利己的な姿には、必ず注意をして改めさせようと、関わること。
つまり、学校ぐるみで指導を入れる必要があると言うことです。
そうすれば、学年担当から見えにくい部分での子供たちの行動を、改めさせることができます。

結構、律儀に子供たちには、学級担任や学年担当の先生というのは、指導されて当然、言うことをきかねばならない先生という認識がある反面、学年の違う先生の指導は、幾分入りづらいところがあるとも言えます。
だから、関わるための条件として、最低一回は子供たちが、担当の先生と意識する先生から、指導されていることが必要になります。職員朝礼を含め、全体集会の場などで伝えられる指導事項を、全く指導しない先生はいないでしょう。
しかし、普段、筆者が学年の違う子供たちに関わろうとするとき、頻繁に思うことがあります。それは、指導事項が守られていない子ども達姿に注意をしたとき、入りづらい様子に一度は指導されているのだろうかと感じること。指導の有無そのものを、疑いたくなるような態度を取る場合だってあります。何故なのでしょう。一度は指導されているはずなのに、指導したときに初耳だと言わんばかりの態度を感じてしまうのは。

原因は、二つありそうです。

まず、すでに述べましたとおり、指導されるとは、言いっぱなしではなく、きちんとその後の行動に指導事項が反映されているか、検証をすることです。
これがないと、学校ぐるみどころか、子供たちからしてみれば、学年を超えて指導をしてくれる熱心な先生を、口うるさい先生としか思いません。当然、指導も入りません。高学年になると、指導はしたものの、その後は何も言わない担任の姿を見て、先生も建て前と本音があるのだ。立場上指導しなければならないが、考え方は違うのだと、高をくくるくらいのしたたかさはあります。

次に、子供たちにとって、全体指導は、担当の先生ではない先生の指導ですから、幾分入りづらいのです。そこを、教室に戻って、繰り返しになっても良いから、担任から守るように話して、補完する。そして、守られているか検証するのですが、せめて、担任の言葉で補完されること。これが、抜け落ちていると、担任の先生は何も言っていないと誤解する、もしくは、そう信じる子供たちが出てきます。

しかし、現実はもっと切実で、生活指導担当の先生から、始業式や終業式と言った場で、全員に、例えば「廊下は公共の場であるから、しゃべらず静かに教室まで戻りましょう」と指導が入ったとします。しかし、残念ながら、その集会後に、教室へしゃべりながら戻る子供たちはたくさんいます。もちろん、その姿に注意する先生がほとんどですが、紛れて一緒になって、子供たちと話しながら戻る先生は、必ずいるものなのです。何とも情けない限りで、言語道断、話にもなりません。
全体的に指導された事項を、自分の言葉で反復して言い聞かせる。そして、指導事項が守られているか検証する。この必要性に気付くことが、学校ぐるみの指導を可能にする最低条件になります。

検証

さて、目の前で指示通りに動くことが出来ているか。
これは、一目瞭然です。

では、先生の目の届かぬ所で、先程の廊下を走ったり、騒がしくする事例にどう対処すべきでしょう。
特別教室への移動時や、始・終業式、学年集会などの集会活動から教室へ戻るときなどに、廊下でのしゃべり声が収まらず、うるさい状態になってしまっていることはよくあります。もちろん、それら集会活動の終わりには、静かに教室へ戻るように指示されているのです。
にもかかわらず、喧噪に包まれたような廊下を見るのは、情けなくなります。

なぜ、このような状況に陥ってしまうのでしょう。
それは、指示に対する検証活動がないからだと断言できます。


我々の出す指示に対して、それらが集団としてきちんと守られているか。
守ろうとしている子供の割合や、周りの雰囲気にのまれて付和雷同してしゃべっている子供の割合はいかほどか。
また、率先してわがまま勝手なしゃべりを行う、いわば指導が全く入ってない子供はどの程度か。
そのような集団の構成を把握しない所以なのです。

その集団の構成を把握する唯一の方法が検証を行うことなのです。

ですから、言いっぱなしの指導は指導ではありませんし、言いっぱなしの注意も注意ではありません。
指導や注意は、指導や注意をすること自体に意味があるのではなく、指導や注意が守られているか否かに意味があるのです。

よく耳にする指導、注意はしているのだが、なかなか子供たちは守ることが出来ないという逃げ口上的な物言い
指導したという既成事実を盾に、責任回避を行う教師の怠慢でしかありません。
それどころか、子供たちに先生の指示や注意は、その場だけ、はいはいと聞いていればよいと言う、大間違いの認識を持たせかねません。

具体的には、指導者一人で行うならば、指示を出した後すぐに先回りをし、廊下での様子を点検する。
学年等で、チームを組めるなら、中心指導者が、戻りの指示を出す頃合いを見計らって、戻りの動線上の任意の場所で待機する。そして、わがまま身勝手な振る舞いを見つけたら、その場で順々に捕捉し、集団すべてが通り過ぎた後、説諭を行う。
この点検作業を行う初めの頃は、頻繁に点検するのですが、徐々に回数は減らして、点検されているから、廊下を静かに通るという意識から、廊下は静かに通るものという習慣化を図っていくのです。
そのためには、毎回点検するのではなく、また同じ場所で点検するのではなく、できるだけ神出鬼没に行うことが効果的です。

生活規律を正すための指導や注意は、しなければならないときも数多くあるでしょう。
しかし、生半可な気持ちで一過性の声かけとしてすべきではありません。
一旦、注意の言葉を発したならば、必ず守らせなければならないのです。
どうしても、守らせきることができなかったならば、後日でもきちんと反省させることは、最低限必要です。

指導や注意は、伝達することに意味があるのではなく、守らせることに意味があるのですから

見逃さない

先生の言葉は、有言実行でなければならないことを述べました。
口先だけの脅しなど、もってのほかですが、次の場合はどうでしょう。

体育の時間を例に取ってみます。
駆け足で集合と指示する。
もしくは、体育の場所移動は駆け足が基本と日頃から指導していて集合と指示をする。

にも関わらず、全員ではないもののごく一部、歩いて集合する姿を見かける。ところが、先生は、ほとんどの子が駆け足集合していることに満足しているのか、二、三名の歩く姿に注意する様子もなく、全員が集合するのを待って話を始める。

さて、子供たちはどう感じますか。
この先、この学級で体育時、集合の仕方はどう変化していくでしょう。
おそらく、だらだらと歩いて集合する姿が微増していくでしょう。

それが、先生の目にとまるようになったら、二、三人ではなく、大勢の子供たちが叱責されることでしょう。
そこで、初めの二、三人が、先生を乗り越えているような子供でなかったら、また元通り走って集合する姿に戻るとは思います。
しかし、一定期間、先生の指示を守らずとも、見逃された無用の経験を積ませている事実は重いものです。

これは、指導者側の指示に対する責任感が、希薄であるから生み出される光景なのです。
根底には、まだまだ発達段階の幼い子供たちであるから、先生の指示や注意を、一回で聞けないのはやむを得なく、無理からぬことである。
こういった無用のものわかりの良さで、子供たちへの理解を示す。
しかし、それは単なる甘やかしでしかありません。
もしくは、先生側に指示や注意を、しっかり聴き取らせ、守らせるだけの力量が備わっていないからなのかもしれません。

もちろん、我々は機械ではありませんから、すべて網羅して、事に当たることは不可能です。
日頃から、廊下は静かにと注意はしていても、先生の目の届かぬ所では、やはり騒いでいる。これは、各自の良心に委ねられるところはあります。
これについては、次の『検証』の項で詳しく取り上げます。
しかし、少なくとも先生が直接指示を出し、目の前で展開される行動には、指示通りに動いているかを、確かめる必要があります。

そして、指示通りに動けていないのであれば、どんな些細なことでも見逃さない
気付いていて、見逃すのは以ての外、それは黙認です。
気づいていようがいまいが、指導者が黙っている姿を見て子供たちは許されたと理解します。

不注意に見逃してしまっても、見逃された当事者にとってみれば、許されたという印象を持つのですから、我々は自身の指示事項の徹底に厳しく責任を持つべきです

脅しは禁物


叱る という行為の範疇にも入らない行為なのですが、脅し に似た注意 の仕方を見ることがあります。

ただし、ここで言う脅しとは、子供を怖がらせる類の脅しではなく、出来もしない懲罰を与えることを口にすると言った、いわば、から脅しとでも言いましょうか、単なる口先だけの軽はずみな注意を指します。


具体例を示してみましょう。

悪ふざけなどを繰り返す子供に、

「つまみ出しますよ」

「廊下に立たせますよ」

と言ってみたり、授業中の態度の悪さに、幾度注意をしても改めない姿に業を煮やして

「もう勉強しなくてよろしい」

「教室から出て行きなさい」

と言ってはみるものの、実際にはつまみ出したり立たせたりという、具体的な懲罰的な行動は行わないという注意の仕方です。

問題点は、築けてもいない先生と子供の信頼関係が築けていると、勘違いをした甘えの構造の上に立っての注意であること。

勉強しないでよいとか、教室から出て行けと言っても、実際には出て行かないだろうという先生側の甘い読みが問題で、この部分が勘違いに当たります。
これでは子供たちに足元を見られてしまいかねません。

もっと言えば、先生が自ら自分自身の言葉を、軽く受け取ってもいいよ、というメッセージを出し続けていることに気づくべきなのです。

その言葉を実行すれば、体罰に当たったり、結局先生自身が困る内容であればもちろん、出来もしない軽はずみな言葉だけの注意は、厳に慎むべきことなのです。

子供たちにとって見れば、文字通り、脅し文句だけで行動が伴わないわけですから、そんな注意のされ方をしても、痛くもかゆくもありません。

もちろん、効き目もありません。

そんなことを繰り返す内に、反抗心が露わになり、先生の予想に反して、出て行けと言われたから出て行くという、強硬な手段に訴える子供が必ず出てきます。
その時になって、ふざけるなや授業中の態度を改めよという、再三繰り返される注意事は無視するのに、挙げ句の果ての出て行けという注意だけ、なぜ素直に聞くのかとぼやいてみても後の祭りです。


本来は、指導者が一度でも口にしたことであるなら、必ず実行されなければなりません。
第一、再三繰り返される注意の仕方そのものが、そもそも問題の始まりなのですが、それは別項に譲るとして、一旦、先生が子供につまみ出すと言ったのであれば、どんなに子供がいやがろうが、抵抗しようが、必ずつまみ出さねばならないのです。

もちろん、法的に問題のある内容を、口走ってしまったため、それを実行しなければならないというのでは、本末転倒、お粗末な限りですが。

それだけ、先生の言葉には重みがあり、軽はずみな感情の揺れによって、発せられるものではないことを常に戒めねばならないということ。
言ったことは必ずするという言動一致の重みがあって初めて、迫力を伴った指導力を発揮するのです。
その積み重ねは、やがて先生の言葉への、いや先生自身への信頼感となって子供たちから支持されるようになる筈です

止まらない匿名性のいたずらは


靴隠しから落書きまで、誰がやったかわからない匿名性のいたずらに困り果てた経験は、先生ならば誰にもあるはずです。
靴が隠されて見つからないまま、代わりの新しい靴まで隠されてしまうことだって平気で起こってしまいます。

あるいは、人権侵害の内容を含む落書きが執拗に繰り返され、良心に訴え、止めるように指導を繰り返しても、一向に止まないこともあります。

そして、保護者からは学級での指導を問われ、担任は八方塞がりの窮地に陥ることになります

相手が見えないだけに、直接的な働きかけはできません。こうういった解決の糸口さえ見つけることが困難な匿名性の行為に、どう指導してやめさせるか。筆者の経験の中から、抑止効果の高いものをお伝えします。

匿名性の真の意味を理解させるステップと、発覚したときの責任のとらせ方を知らせるステップの二段階に分けて指導をします。


初めのステップ!
匿名性の真の意味を教える。


匿名での行為は、単に対象の相手を傷つけたり、仕返しをしたりするにとどまりません。
被害者は、特定できない犯人を特定しようと身近にいる者をすべて、学級であれば学級全員を疑いの目で見なければならないのです。
被害者にとっては、誰も信用できない状態です。

加えて、無実であるのに疑いの目を向けられた無作為に抽出した一人についてはどうでしょう。
被害者からは疑われているが、あらぬ疑いをかけられた自分も被害者といえます。
そして、同じく自分以外の全員を、疑いの目で見ることになってしまいます。

これが学級の人数分、正確には真犯人の一人分を差し引きますが、全員に当てはまります。
いいえ、学級だけにはとどまらないでしょう。学級から学年へ、事と次第によっては学校へと疑いの連鎖は広がるはずです。
つまり、犯人以外の全員が全員を疑いの目で見る環境ができあがるのです。
もっと言えば、被害者の自作自演だって疑えますし、まさかですが、先生だってその気になれば疑うことはできるのです。

これは、誰一人として例外なく先生ですら疑うことのできるまさしく疑心暗鬼の世界といえます。

犯人にとって見れば、対象の相手に何らかの打撃を与えようと、匿名での嫌がらせをしたわけですが、その打撃は相手だけにとどまりません。関わりのある人間関係をずたずたに引き裂く卑劣極まりない軽率なその行為は、学級や学年といった関わりのあるすべての人間関係を、疑心暗鬼の世界に引きずり込んでしまいます。

まだまだ人生経験の少ない未熟な子供たちが、この真実を知る由もありません。


次のステップ!
発覚したときの責任のとらせ方を知らせる。


匿名性の軽率な行為を行う者のすべてが、バレないと信じています。
ここで、バレていないと思ってもこの世の中に一人だけ見抜く者が存在する。
それは自分であるとの価値観を伝えるのも一法でしょう。

しかしここではもっと強烈に、これだけの説明を聞き、自らの軽率さとその愚行の反社会性に気づいてもなお繰り返すならば、発覚時には真犯人であるあなたの名前を、こういう集会の場で公表する用意があると宣言するのです。
実際に発覚した場合、宣言通りに公表できるか否かは、個別の事案によりますが、具体的な責任のとらせ方を予め知らせることにより、抑止の効果をねらうのです

もちろん、改心して密かに名乗り出た場合には、その情報は守秘することも伝えます。
それは、安心して名乗り出てよいという意思を伝えるというよりも、それほどに羞恥の愚行であり、打ち明けて謝っても簡単には許される行為ではないこと。
なにより被害者は多数に上っており、直接物理的な被害を受けた相手だけに謝罪をしても意味がないこと。
精神的な被害者は真犯人のあなた以外の全員であり、もし謝罪するならばこのような集会で壇上に立つ必要があること。

それは真犯人のあなたにとっても、あまりにもつらい状況であり、そういう状況は人にとって耐えがたいことである。

だから事実上謝罪は不可能であること。

つまり、謝りようのないことをしてしまっているという事実を強烈に印象付けるという意図も含ませて、名乗り出た場合に我々が守秘する意味を伝えるのです。

これら一連の諭しの狙いは、ただ一点。
現在継続中の匿名性の軽率な行為を止めさせることです。
正直さを求めて、名乗り出やすい環境を整備する目的はありません


それは、経験上からこういう匿名性の事案で名乗り出てきたためしは皆無に等しいこと。
名乗り出て、被害児童と加害児童を面会させ謝罪させても、先ほどから述べた理由で意味がないことに加え、たとえ謝罪させて表面上の人間関係を修復させたと指導者側が勘違いしても、やはり怨恨は増幅してしまうことが容易に想像できるからです。

それほど取り返しのつかない愚行を続けてしまっているという事実に対して、この公表する用意があるという宣言を、単なる脅しと捉えさせないためには、日頃から生起する様々な生活指導上の問題を、学級や学年全体に出来うる限り実名を挙げて返しながら、みんなに知らせて全体で考えて行く姿勢を培い、集団思考の素地を築いておく必要があります。

切れる子供に


『切れる』という言葉は、個人的に好まないのですが、激高の挙げ句、常軌を逸した振る舞いを行い、まるで人が変わってしまったような状態に陥っている様子を指すとします。
指導者がもめごとの聞き取りをしている最中に再度切れて、感情的になって相手をののしったり、けんか腰に態度を荒げて、汚い言葉を投げつけるといったことはよくあります。
そんな場合の対処法を考える前に、人が感情を荒げる理由を探っておく必要があります。


何故、人は怒りの感情をもつのか。 

これを諭すことは、次回からの子供たちの言動を適正に導くには欠かせないからです。
怒りは社会の中で自らの他者への期待値と、現実の値の開きによって引き起こされます。
期待を裏切られたという感情を、相手への不満として表現するのが怒りです。

怒りという感情の裏側に隠されているのは、悲愴、疎外、羞恥、無念等々の人にとって受け入れがたい感情や状況です。
どれも確実に自尊感情を崩壊させます。
その自尊感情を守るために人は怒り、不満をぶちまける。

暴力は、相手の存在を消すことによって、わが身の存在意義を担保する卑怯ではあるけれども人間の本能的な行動。
罵詈雑言を浴びせ相手の感情をずたずたに引き裂く行動もしかり。

もしも、人が山奥で独り暮らす仙人のように周りとのかかわりを一切断っていたとしたら、怒ることはまずないでしょう。
人は、一人では怒りにくいものなのです。
この事実を子供たちに伝えておくことは有意義です。

人は人に認めてほしい生き物なのだ。
だから、人は一人では生きていけない。社会を形成し、その中で自身の存在意義を認められるという形で確かめながら生きていく。
しかし、認められず追い詰められたとき、相手を攻撃してしまうことがある。
愚かだが、人は寂しく弱いのだと。 


こう諭すことによって、切れる子も寂しいという認識を育むのです。  周囲の理解は、環境を落ち着かせます。


さて、現実に戻ってどうしましょう。


一番まずいのは、切れている子供に叱る、怒鳴るといった指導者自身が腹を立てて挑発的な行動をとること。
先生も一緒になって切れていたのでは笑い話にもなりません。

次にまずいのは、指導者が切れている子に輪をかけて諭し、拘束力を持った指導をすること。

切れている状態というのは人が変わってしまっているのですから、何を言っても無駄なことは確かです。とは言うものの、つかみ合いの喧嘩になっているのならば、すぐさま止めなければなりません。
しかし、ただ切れいているだけならば、放っておくのがよいのです。
そして、わめいていたり悪態をついている間は放置。周囲にも関わらぬよう宣言してしまう。他の関係者に事情を尋ねるなど、するべきことは山ほどあるのですから。

しかし、本当は忙しいから、他にすべきことがたくさんあるから放っておくのではなく、その間に落ち着かせる目的があります。
先ほど述べましたが、怒りは他者との関係の中で生み出されるので、一人では怒り続けられません。

しばらくして、元の自分を取り戻してきたなと見て取ったとき、落ち着いたかと尋ねてやり、静かな口調で、具体例を挙げながら、常日頃はあんなに優しい仕草が見られるあなたが、さっきはいったいどうしたというのか。よほど腹に据えかねることでもあったのだろうと、寄り添いながら尋ねていけば、涙ながらに本当のことを語るはずです。

そして、すべての心情を理解し、必要に応じて、謝罪や和解を行った後、普段のあなたからは想像できないくらい、さっきの姿は恥ずかしかったと評価をしてやるのです。乱暴な姿を見せたのは、本当は寂しかったからだという感情を共有しつつ、人が変わってしまうような立ち振る舞いをすることは、恥ずかしいことであることも共通認識するのです。

この価値観も伝えられて初めてわかります。
私達の仕事は、人が相手ですから、相手が押してくれば引くという気持ちのゆとりは常に持ち合わせていたいものです。

「やられたら、やり返えせ」にどう対処するか

やられたらやりかえす。
報復や復讐といったいわゆる仕返しを正当化する場合への対処法です。

言われたから、言い返した。
叩かれたから、叩き返した。
特に前者の場合は、正当な場合もあるでしょう。

しかし、一般に暴力の場合、報復には負の連鎖がつきもので、最終的には殺りくまで行き着きます。
もちろん、子供たちの世界でそこまで連想することは無意味に近いですがないとは言い切れません。
とにかく、やられたらやり返してもよいという価値観は、日常茶飯事に顔を出します
家庭で、この価値観に保護者がお墨付きを与えてしまっている場合もあります。
そういう間違ったしつけを受けて育ってきた場合は、悪びれず報復に出てはばかりません。

更に、やられたから仕返したと、自分の行動を正当化してしまっている場合は、仕返しという身勝手な大義の下、受けた暴力以上に輪をかけて攻撃してしまっていることもよくあります。単に言いがかりをつけ、一方的な暴力を仕返しと銘打って、粗暴な行動を繰り返す場合だってあり得ます。

なぜなら、暴力行使は強者の論理だからです。
仕返しもそれが暴力である以上、強者にしか行使できないのです


暴力的に強い立場の者が弱い立場の者に対してしかできないのが、やられたらやり返してよいという暴力的な仕返しの本質であり、弱者が強者に暴力的な仕返しを制裁として加えられるわけもありません。

保護者の間違った価値観の下のしつけはやっかいです。

また、そういう価値観の下に育てられた子供たちは、自らの行為に正当性を認めていますから、謝ることに抵抗感を持っていることが多いものです。
この抵抗感がある以上、和解は難しくなります。
そこで、「やられたら、やり返えせ」と教えられている事実を逆手にとって「謝られたら、謝り返せ」という価値観を追加するのです。それが仕返しと銘打って行使したと主張する暴力ならば、その仕返しの原因だと主張する部分について、本来謝罪の必要もないと思える弱者側が真の勇気を発揮して、たとえばそこの部分は自分も悪かったと謝ったならば、自らの行使した暴力行為を恥じて謝るのは人として当然でしょう。
暴力を背景にした強者は卑怯者ですが、和解を選択すべく謝意を表す強者は勇者です。

やられてやり返すことを認めるわけにはいかないが、それを主張するならば、最低限「謝られたら、謝り返す」ことも条理であると説くのです。

さて、この条理の教え先ですが、子供にはもちろん保護者にも教える必要があります。
やられたらやり返すことをまるで権利といわんばかり一徹に主張する保護者を変えることは難儀を極めます。
間違った価値観を認めてしまってはいけませんが、大人の意識変革は一朝一夕になせる技でもありません。

そこで 「やられたら、やり返す」を権利として子に教えるならば、
「謝られたら、謝り返せ」と教えるのも親の義務であり責任
ではないかと説くのです。

学校と家庭が真逆のことを教え続けたら、おそらく子供は家庭の教えを選択します。
子供たちに伝える内容は、保護者も納得出来るものであることが望ましいことは当然です。
根本的な解決には、個人の意識の変革を待たねばならず相当の時間がかかるとして、当面の対処としての付加価値は大きいと思います。

させようとしたことは叱らない

「会話を成り立たせる」項で、言い訳や理由があったら言えるという雰囲気を醸し出しながら叱ると申しました。しかし、よくない言動をしてしまった時に、何某の理由を述べたら余計に叱られてしまったのでは、次回から自分の頭で考え反省をすることに抵抗感を持たせてしまいます。

たとえば、友達を叩いてしまった子がいるとしましょう。
指導者であるならば、必ず理由は問うでしょう。
いや、理由など問う必要はない。
暴力は絶対に認められるものではないから、理由の如何を問わず叱るべきだとは言えないでしょう。

確かに、暴力をふるったという事実関係は決して許されずその通りなのですが、それでは、ひどい罵りや挑発的な言動に堪りかねての暴力に対する指導ができていないことになります。
暴力的な行為を止めて行くには、理由を聞き、たとえひどい罵りや挑発的な言動が相手にあったとしても、心情的には十分理解できても、それでも暴力は許されないものなのだという諭しが必要なのです。

とはいうもののそういう情状酌量の余地がある場合ばかりではありません。
どうして暴力をふるってしまったのかという先生の問いに対して、子供は未熟ですから、理由として心情的に寄り添えない身勝手な論理を振りかざす場合があります。

しかし、そこは決して叱ってはならないのです。反対に、きちんと理由として自分の考えを言えたことを誉めるという形で評価してもよいくらいの場面なのです。

いくら身勝手で自己中心的な理由であれ、先生の問いに対して答えた理由であるならば叱ってはならない。
何故なら、叱れば次回からは確実に何を問われても口を閉ざすからです。会話が成り立たなくなれば、指導のしようもありません。

現実には、このポイントで叱る先生は多くいます。
中には感情のおもむくまま、あるいは子供の語る身勝手な論理をじっと耐えて聞く内に、たまりかねて激高し子供を怒鳴り散らす。これでは、先生自ら会話を成り立たせていないことになります。
暴言暴力で話し合いを止めてしまうのは、民主的にはほど遠い行為です。

更に何故そう言うことをしたのか正直に言ってごらんと問われて、やっと正直に胸の内を語ったらひどく怒られてしまった。

この経験を積ませることは、如何にもまずい。

いくら納得のいかない稚拙な理由であれ、その地点でその子供の本音に近い心情を、問うた先生に信頼を寄せて語ったのです。
そして、語られた言葉から読み取れる事実は、その子の現実であり、その子が今正しいと思っている価値観そのものなのです。

そこを叱れば、ましてや逆鱗に触れたならば、そこから子供たちは何を学ぶでしょう。
正直に語れば先生に突き放される。
自分の主張は認めてもらえなかったし、先生は自分のことをわかってくれない。
ましてや、先生が言えと言うから言ったのにと、そう思わないでしょうか。

指導者である先生自ら、子供たちからの信頼をなくさせているのです。
少々、皮肉っぽく言ってしまいますが、どうせ怒るつもりであるならば、理由など聞かず頭ごなしに怒ってしまった方が後々に尾を引きかねない悪影響は少ないかもしれません。

理由の問い方


理由というのは、人の内側から語られます。
人の行動の理由を外側に求めている内は、言い訳です。
対して、内心や本音が吐露されたとき、それが理由です。

そのあたりの指導法を具体例で見ていきましょう。

誰かが誰かをののしったとしましょう。
指導者であれば、当然なぜののしったのかを問い質します。すると子ども達の多くは、「冗談で」と言うでしょう。
指導者は、冗談でののしってはいけないと諭し、謝罪させる。
これは、ずいぶんまずい指導です。

「冗談で」というのは、理由ではなく単なる事実説明です。
「ののしった」の前に「冗談で」という事実説明を付け加えただけです。指導者がここで納得して説諭を行ってくれれば、子どもにとってみれば、理由を明かさずに誤魔化したまますり抜けられるのですから、万々歳でしょう。

指導者は、「冗談で」というのは単なる事実説明であることを伝え、続けて理由を問います。すると、子どもたちは「おもしろ半分で」とか「からかって」とかいろいろと言うでしょう。
しかし、それらもやはり単なる事実説明で、たとえば「おもしろ半分にからかって冗談でののしった」と事実の説明が長くなるだけであることを伝え、尋ねているのは、なぜ「おもしろ半分にからかって冗談でののしった」のか、その理由つまり気持ちであることを伝えます。

そこまで追及されても、初めのうちは答えに詰まってしまうことがほとんどです。
そのため、できるだけ学級会の場を利用して、個別の事案を全体に返しながら、事実と理由の違いや、理由というのは自分自身の内面から語られるものに対して、自分以外のものに理由を求めている限り、それらは単なる言い訳、もっと言えば気持ちの誤魔化しに過ぎない ことを指導するとよいでしょう。

ここで指導者の求めているのは、「自分のことをバカにされたから」「無視されたから」などという自分の存在を否定されることに類する言葉です。
もしかしたら、初めは「誰々が嫌いだから」「誰々が憎たらしいから」などという人間の醜くどろどろした内面からにじみ出てくるような言葉が理由として語られるかもしれません。
確かに内面は語られているのですが、嫌うというのは現象で、嫌いになった理由を見つめさせなければなりません。相手のどこが嫌いなのかと、自分以外の言い訳に思考を導く問いも愚問です。

内面が語られ、真実が見えて初めて人は反省の入り口に立ちます。

ここで指導者が「バカにされたからといって、無視されたからといって」ののしってはならないと諭してはいけません。
ましてや間違えても、「誰々が嫌いだから」「誰々が憎たらしいから」といってののしってはいけないという指導でお開きにするなどは論外です。

お茶を濁すように諭す指導で終わりにしたいのであるならば、決して内面に秘められた本音そのものを語らせてはなりません。
ましてや、相手の友達がいる前で、話をつきあわせる形で嫌いだという内面を語らせて、嫌いだからといって暴力的な態度をとってはいけないと締めくくったのであれば、嫌われた者はたまったものではなく自己嫌悪の極みに落ち込んでしまいます。

どこが嫌いなのかではなく、何故嫌いと感じたのか。
どこが憎たらしいのかではなく、何故憎たらしいと感じたのか。


それはバカにされたり、無視されたりしたからかもしれない。
そうであるならば、バカにされたり、無視されたりすることによって自分自身の存在についてどう感じたのか。
つまり、自分の内側に潜む感情はどう変化したのか。
こうして内側へと思考を導くのです。
端的に言えば、相手に原因を求めている内は理由を語っていないのです。
理由というのは、相手のことに原因を求める思考ではなく、自らの内面に焦点化して自分自身の心情を深く掘り下げて初めて見いだされるものなのです。


そして、その上で初めて、そうであればののしるという行為は正当化されるのかと問うことになります。
もちろん、答えはそうであってもののしることは許されない。
されたら仕返してよい訳がないのです。

ただし、洞察眼鋭く嫌う本音の出所を見抜き、強者の残虐性が原因であると推測したならば、理由は指導者だけが聞くべきです。
人が動物として持ち合わせてしまっている弱肉強食の残虐性は、決して嫌われている本人には聞かせてはならない配慮事項だからです。
本人に聞かせてよいときは、嫌う社会的な理由が存在する場合だけです。
社会的な理由というのは、人と人が関わる中で生み出されてしまう摩擦やすれ違いのことです。

人が誰かを嫌いだとか憎たらしいと思う理由について表現方法は様々ありますが、真実はたった一つしかありません。何らかのもめ事があり、相手に抗議したが取り合ってもらえなかった。
反対に、馬鹿にされるなど理不尽な扱いを受けた。
また、反撃されてしまい暴力を受けたなどなど。

すべての根っこでつながる心情は、自分をないがしろにされたというものです。
自分というかけがえのない存在を無視されたり、存在そのものを否定するような理不尽は人には受け入れがたいものなのです。

人は、ここに気付いて初めて人に優しくなることが出来るのです。
人は弱いものだから、自分が大切なのだ。
そして、自分以外の人も、弱い存在なのだから自分が大切なのだ。

この真実に気付かせ、認めさせる過程そのものが、指導者の真の厳しさであり、もし日々起こる様々なもめ事を和解へ導く指導があるならば、この過程を経るしか方法はありません

できるだけ放っておいて誉める

集団は、できるだけ放っておく。
つまり、指示を減らすことが、子供の主体性を引き出すことにつながります。


この項では、集団を導くときの「誉める」と「叱る」という正反対の価値観について、もう少し掘り下げて考えてみます。

もちろん誉めながら集団を導けるとしたらそれに越したことはありませんが、なかなか現実はたやすくないことも事実です。
しかし、それを可能にする指導法が、『待ちの指導法』なのです。
「目的を持つ」「自分の頭で考える」という基本を前提に、「言われる前にする」、「周りの様子に気配りする」という価値観に基づいた行動の規範や基準をきっちりと伝えていることが前提となります。
子供たちの意識にある程度それらのことが身に付いてきたら、子供たちは集団として何も指示を出さなくても、自ら判断し行動しようとするようになります。

例えば、学年順に集会活動の場へ集まるような場面を思いうかべてください。
先に集合している学年は、並んで座って待っている。
その並びに後から加わるとします。

通常の状態を誉めるという行動の水準点が示されておらず、しかも先生が先導して指示を出し、前から順番に座らせていくという、よくある指導を日常的にしているとしましょう。そういう指導の下では、子供たちは考える必要がないわけですから、先生の指示をよく聴いていない子がおしゃべりをしていたり、後ろを向いていたり、集団の枠からはみ出す行動をとりがちです。
周囲の批判的な視線が気になった担任の先生が、叱ったり、個別に注意をして前を向かせて静まらせてということに陥ってしまいます。

少々皮肉っぽく言わせてもらえるならば、子供達にとって見れば、先生が指示を出すまでついてきているだけでいいよ。指示が出れば、その通りに動けばいいのだから。と、担任の先生が態度で示しているのに、その通り考えず横を向いていたら叱られてしまったといった具合でしょう。先生自身が、子供達にそのような振る舞いを許しているのですから、叱ることはお門違いかもしれません。

しかも、個別に関わってもらえることは子供達にとって先生を独占できる状態ですから、少しでも甘い態度で注意をしていると、次から次へと自分も関わってもらおうと考え、手のかかる子を演じてしまうことだってある のです。

そこまで想像を豊かにしなくとも、先生が指示を出している状態では、子供たちは指示通りに動いて当たり前ですから、指示通りに動いたとしても、よほど指導者の意図的な思惑が入らない限り、そこで誉めようと思うことはまずありません
反対に指示通りに動かなかったときは、減点対象の行動と言うことになりますので、叱らなければならないと感じてしまうのでしょう。


対して、何も指示を出さず、ただ待っているだけの指導ではどうでしょうか。

もしも、まだ子供たちが指示の出ない指導になれておらず、自分たちでうまく動けなかったとしても、指導者としては動けなくても当たり前と思えるかもしれません。
そこまでは思わずとも、仕方がないとは思えるでしょう。
子供達だけの力で並びに加わり順番に座って行くということができなくても、評価感情の増減はないわけです。
次回できるようになろうと期待を寄せておいてやればよいのです。

反対に、自分たちで周りの座っている様子を見習い、静かに座って待つことができたら、評価感情は誉める方向へ倍増といって良いでしょう。

できるだけ指示を出さず何もしないで放っておく
つまり、ただ待つだけという一見消極的にも見える『待ちの指導法』というのは、待つことによって子供たちのプラス面を引き出し、誉めながら集団の自治意識を高められる最も積極的な指導法なのです

通常の状態を誉める


たとえ話として集団開きの頃を取り上げてみます。

学級が組織されて一番初めの集まりでは、担任の先生はどんな先生だろうか、周りの友達はどんな子だろうかという期待感、あるいは不安感から、しんと静まって話に集中していることが多いと思います。
これは、当たり前のことであり、この状態を普通の状態として捉えるところから以後の指導を始めます

たしかに、子供達にとってこの状況というのは期待感とともに一定の警戒心をもって、環境の変化にともなう不安から自己防衛を優先させている状態といえるかもしれません。
そう言う意味では、ある種特殊な緊張状態におかれていると捉えることも出来ますが、そこをあえて普通の状態と捉えるのです

この状態を、特殊な状態と捉えてしまうから、だんだんとたがが外れるように緊張状態がほぐされて行き、その内、身勝手わがままな姿さえも子供らしさと解釈してしまったり、子供はこんなものだ、仕方がないと大目にみてしまう。
極端な話が、集団の騒がしさも子供らしさと捉えてしまう感覚。そういう感覚の対応の行く末には、指導の困難な状況が待ち受けます。

誤解のないように付け加えておきますが、緊張感を保つために一年間縛り付け、押さえつけるなど以ての外。
一人ひとりを出来るだけ深く理解していくのも当たり前。
何も鬼のような振る舞いで、緊張感を継続させると言っているのではありません。
学級開きの頃のいい部分としての緊張感を持ち続けられれば、落ち着いた雰囲気の中で授業を受けることが出来、継続的に子供達の学習権が保証されることになるということに異論はないでしょう。

話を戻しますが、反対にもし学級開きの頃にざわついて収拾がつかないようだと話は別(待ちの指導)になります。
しかし、この緊張感を当たり前で普通の状態として誉めるのです。
誉められることによって、当たり前に過ごしている普通の状態を追認されることになり、この状態を最低は維持していける素地が、指導者により保証されるのです。
この水準を最低維持していれば、心地よく誉められる。
子供達にこの感覚が目覚めれば、普通の状態が繰り返されることになり、通常の状態へと進化を遂げます。
そして集団の感覚は、正の思考回路に入ります。
指導者はこの水準、つまり学級開きの頃の良い意味での緊張感が通常の状態になった集団を、高みへ引き上げていくための要求を、小出しにしながら、育てていけばよいのです。

この手順を踏まないと、集団行動に対する善悪基準の裏付けがゆるみ、行動の堕落へつながりかねません。危険なのは先ほど述べた、騒がしさも子供らしさと捉えてしまうような指導者側の感覚です。そして、いずれこの基準状態を崩していくような行動が出てきたら、叱ることになるのです。
しかし、それはすでに時遅しで、善悪基準は叱られた地点まで下がってしまっていることに気づかねばなりません。
子供たちの感覚には、ここまでわがまま身勝手な行動をしたら叱られるという事実が刻印されます。
反対に言えば、叱られた地点までは許される。
集団の感覚は確実に負の思考回路に陥ってしまいます。

このことは、学級にも個人にもそのまま当てはまります。
平たく言えば、普通に過ごしている姿を誉めておけば、普通に過ごしていくものなのです。
普通に過ごしていく頻度が高くなれば、それが通常となり日常の姿となるのです。
少々ぶれて羽目を外して叱られても、誉められている基準点がありますので、どこに戻ればよいか非常にわかりやすいのです。

極端な話が、いつも悪さばかりして叱られていた子に対して、普通に過ごしていれば、その姿を誉めればよいのです。
あくまでも極端な話ですが、少なくとも悪さをしていない状態、言い換えて普通に過ごしている状態を誉めることにより、行動の水準点を示してやるのです。そうすることにより、たぶんその子は、悪さをせず普通に過ごすことが多くなるはずです。
誉めて育てるの項で述べましたが、普通の状態の再現を願って誉める。その普通の状態を、学級開きの頃の良い意味での緊張状態と捉えれば良いだけのことです。

また、たとえ話として学級開きの頃を取り上げましたが、初めから継続的に行わなければならない指導でもなく、静かにしていたり集中している瞬間を捉えて、いつからでもどの地点からでも始められる指導であることは言うまでもありません。

常体表現を意識して誉める


誉めること自体が上位者としての先生の立場を保証します。
そして、良い意味で子供達の上に立つ ことが出来る素地を固めます。

上に立つからこそ、子供の集団を俯瞰するように観察できるようになり、人間関係の全体像もつかみやすくなります。

また、誉めるという行為は、上下関係の中で上位者からのみ行える ものであるとも申しました。
しかし、我々の日常生活や会社などで、目上の方に対しても誉めることが出来ているのではないかと思われたかもしれません。
たしかに、「~の解決に導かれる手腕はさすがですね。感服いたしました。」や「よくそんなところまで気付かれましたね、お陰様で助かりました。」というふうに敬体はもちろん、かなりへりくだってならば誉めることができるとも言えそうです。
しかし、ここでいう誉めるという行為は、常体表現で何某の行為を評価する表現方法を指します。
「よくできました」に代表されるように、敬体の誉め言葉を使って悪いわけではありませんし、日常よく使われています。常体表現を意識するとは言葉の問題だけでもなく、肝要なのは、その誉め言葉に伴う先生の立ち振る舞いが上位者として保たれているかということなのです。「よくできました。」「偉いぞ。」と常体表現を加えたり、言葉は付け加えなくてもよしよしと頭をなでたり、そういう雰囲気を醸し出せていれば常体表現で誉める ことを意識できていることになります。


反対に、それが意識されていない誉め方も日常的に見ます。たとえば、「みんなのことを考えて意見を出してくれたんだね。ありがとう。」や「すごい、さすが○○君。」など、おだてるとまでは言わないものの多分に気遣っている様子が読み取られてしまうような誉め方です。
修学前の幼児ならまだしも、低学年でも通用するかどうかのぎりぎりの線で、年齢を重ねるほど誉められても何もありがたくないどころか、反対に恥ずかしささえ感じさせてしまうことになりかねません。

ありがとうとお礼を言ってみたり、すごいと持ち上げてみても、子供自身のそれぞれ内側に対する評価が抜け落ちており、上辺だけの軽い誉め言葉として子供達の腑に落ちないものになりかねません。
誉めるという行為は、目上の立場から目下の立場に行われるものだととらえていると申しました。
そして子供達の直感力は驚くほど優れています。
理屈ではなく直感なのです。

このように先生が誉める意味合いをよく理解しておらず誉めたとしたら、子供達は直感的にどう捉えるでしょうか。多くの素直な子供達は、理解して誉めた場合と違わないでしょう。
しかし、一部のずる賢い子や早熟な子、教室の約束事からはみ出そうとする子やちょっと指導に配慮のいる子たちは、誉めるという回数が増えるほど先生が下手に出てきていると見透かすはずです。

先生は、子供たちの上に立つ者としてふるまう必要があります。
なぜなら、先生という立場は時に強制力をもって指導せねばならぬ時があるからです。
教室でいじめがあれば、「やめろ」と制止をかけて、それに素直に従う子供たちでなければならないのです。
教室で暴力をふるう子がいたら、やめさせる必要があるからです。


上意下達とそれを素直に聞き入れる関係は師弟の間、つまり先生と生徒児童間に必要不可欠ですが、この関係は互いの信頼関係から導き出されるものです。

暴力的な威圧を背景に先生が指導をしても、決してそれら問題行動はやみません。
水面下に移行するだけです。

先生が上位者としてふるまえ、子供たちがその上意下達に納得して従う関係の素地は互いの信頼であるということ。
そして、その信頼を得た関係を築きあげる為には誉めて認めるという行為のほかに手段はないのです。

誉めて育てるとは


親であれ先生であれ、大人が子供を教え育てる目的は、対人関係をよりよく行い、集団行動をより適切にとれるよう導くためです。その営みは、子供達に社会性を身につけさせるためと言い換えることができます。

社会性とは、複数の人が集まる中で対人行動や集団行動をより適切に行う技能を身につけた結果、表現される行動様式です。
その行動様式は、人が様々な体験から学びとり積み上げてきた経験の度合いによって決まります。
子供達の場合でも、様々行う日々の事象の中で自らが取った言動から成功事例を記憶し、次回の行動様式にすべく備えとして蓄積します。
そして、新たに遭遇した前回とよく似た事象にたいして、備えとして蓄積していた経験値から最適の表現方法を導き出す。結果、適切に対処できるようになるのです。
われわれは、子供達の言動に価値判断を行い誉め認めることで、成功事例としてその記憶に刻む指導をしているといえます。

また、「誉める」ということには、その言動を繰り返して表現してよいという示唆が含まれています。
つまり、誉められたことには再現性がある のです。
そうして、誉められたことを再現させ、また誉められることによって追認される。
そして、その再現性は積み重ねることによって行動様式として定着し、社会性となって形成されるのです。
これが、誉めることによってのみ社会性が培われる所以です。

反対に、叱ることはどうでしょう。

「叱る」ということには、誉めることとは正反対にその言動を繰り返して表現してはいけないという示唆が含まれています。
もちろん、何度言って聞かせてもわからないという場合はあるでしょう。そういう誤って再現してしまったときには、また叱られて再度の表現を禁止されるはずです。
つまり、叱られたことには再現性がない のです。

このように叱る行為は、誤った言動を行わせないようにすることですから、経験値として蓄積されるものはないといえます。平板に言えば、叱るだけでは再現してならないことはわかるけれど、何を再現させればよいのかがわかない状態に陥るのです。もちろん、してはならない言動を繰り返させないことが目的ですから、叱ることも必要です。そのこと自体を否定しているのではありませんが、叱るならばどこに戻ればよいかという地点を示してやらねば、子供達は堕落の道を進むことになります。

誉めることと叱ることは車の両輪ですが、誉めることによってのみ、成功経験は蓄積され社会性は培われます。反対に、叱ることによって社会性に結びつく経験値の蓄積はないといえます。

なぜ、誉めるのか

誉めて育てるとよく言われます。 
確かに、叱られてばかりではやる気をなくしてしまうどころか、反発の元となりかねません。しかし、だから誉めてちやほやするでは、話になりません。一般的に誉めるということには、自己の肯定感や有益感などを養い、自信を持たせたり、意欲増進を図るねらいがあると言われます。

しかし、本書の主題の一つである『師弟の一線を引く』観点では、ちょっと違った角度から誉めるという行為をとらえます。なぜ、師弟の一線を引くのかの項で、良い意味での甘えの関係は、教育活動の潤滑油の役割を担い、先生が上に立ち、その下に子供たちがいるという関係が教育の出発点であり、この関係なくして、教育は成り立たないと申しました。

そして、ここでは誉めるという行為は、目上の立場から目下の立場に行われるもの だととらえているのです。
一般社会においても目上の方に対して、誉められないわけではありません。
しかし、誉める行為とは、誉める側が誉められる側の行為を価値判断して一定の評価を与えて認めるということです。
学校社会で、子供たちが先生の行為に対して価値判断をして、何らかの評価を与え誉めると言うことはない、と言って良いでしょう。
それが証拠に、私は長い教職経験の中で、子供から誉められたことは、一度たりともありません
先生にとって誉めること自体が、上位者としての立ち位置を確立し、子供たちにとっては誉められることで、先生に対する敬愛の念をより一層深めさせると言えます。そして、それは教育に欠かせない良い意味での甘えの構造を支えるのです。

わかりやすい一例を、ご紹介します。

ある時、若い同僚の先生が、何故誉めることが大切なのか、という質問をしてきたことがあります。その時に、私はこう答えました。
「では、先生、私を誉めてみてください。」
その先生とは、年齢で一回り半は離れています。日頃から、いろいろと子供への指導の方法を伝えていましたし、ありがたいことに伝える内容に、納得して下さっている様子でした。だから、私の知識や方法論を、誉めようと思えば誉められたはずです。しかし、その先生は私を誉める代わりに、次のようにおっしゃったのです。

「いいえ、そんなおこがましいこと、私にはできません。」

そうなのです。
日頃から、いろんなことを教わっている先輩の先生を誉めること自体、はばかられるのです
先輩、後輩の関係でこれですから、これを先生と子供の関係に置き換えてみれば、誉めることの持つ本当の意味が見えてきます。

つまり誉めること自体がいい意味で上位者である先生の専売特許であり、誉めること自体が先生の立場を確立させていると言っても過言ではないのです。子供たちの行為に価値判断を下して何らかの評価をする行為そのものが、良い意味で彼らの上に立ち、その間に一線を引くための必要条件となるのです。
ただ、もちろん誉めること自体にこういう意味合いがあると言うことを、そして、そう言う意図を含ませて誉めていることを子供たちが理解しているわけではありません。それでも、誉めてくれる先生に好感を持ち、慕うようになることからも、直感的もしくは本能的に、そのことを理解したり感じ取ったりしているのかもしれません。

人は弱い者です。ましてや子供ですから、誰にも評価されない環境下では、なかなかよき行いを実践しようとするのは難しい面があるのです。誰かに見られていて誉められたい。これが子供たちの本音でしょう。そして、友達が誉める立場にいないことも事実ですから、やはり先生に認められ誉められたいのです。

四方山話

担任に対する思いやりや敬う気持ちを育てることなく指導を受けている子供たちは、担任や学校の先生に留まらず、間違いなく大人に対して対等意識を持つようになります。
その意識は幼さ故、増長して大人に対する挑発的な態度を取るようになることがあります。
ケンカ腰なその態度が如何に恥ずべきことか、教えられることのない不幸を憂うばかりです。数年前に私が経験した事例をもとに検証してみたいと思います。

その日は、さわやかな風が心地よい初秋の一日であったと記憶します。
遠足からの帰りに電車を利用した時のことです。シーズンと言うことで、他校の児童達と列車に同乗することになり、双方の団体の一部が同じ車両に乗り合わせました。残念ながら、この状態になった地点で何かトラブルを心配させてしまうのが、都市部の学校教育の現状です。

案の定、私が担任していた男子児童が、他校の児童から風貌について揶揄されたとの訴えがありました。
その子は、少々色黒で目鼻立ちのはっきりした彫りの深い顔立ちです。
訴えを要約すると、一方的にインド人みたいとからかわれたというものでした。日頃から、体のことは言ってはいけないことだと指導を受けている子供たちには、そのからかいの行為はなおさら許されないものだったのでしょう。

控えめに相手校の先生に事情を説明し、事情を聞き取らせてもらう許可を得て同席の上、そのからかったされる児童に話を聞いたのです。
そして、インド人ではないこと。
また、その物言いはインド人の方に失礼であること。
からかう行為はよくないことを、決して高圧的にならぬよう慎重の上にも慎重に配意しながらその児童の担任の先生とともに伝えたのです。

時間的な制約のある中での指導にはかなりの困難がありました。
形だけかもしれませんが、なんとかお互いに和解をさせるところまでこぎつけたのです。

やれやれと胸をなで下ろし、もうこれ以上接触しないでくれと本音で思っていたのです。
車内は寿司詰めではないものの混雑で、気分を悪くする児童がおり、外気を入れようと窓を少し開けてやったのです。

そうこうするうちに下車駅に着き降りようとしたときのことです。その光景の一部始終を見ていた他校児童のその他大勢の中に、いかにもふてぶてしく足を投げ出すように腰をずらして座る男子小集団がありました。その内の一人が如何にも挑発的でにやつきながら「開けたら閉めて行かなあかんと違うんか」と、聞こえよがしに叱責するのです。
降り際の時間的な制約から、反撃を食らうことがないと計算しつくしたあまりに幼い、しかし十分に攻撃的な行為です。思わず、大人げなくその声の主の方を睨み付けることしかなすすべはありません。その子の担任の先生であろう方もこちらの表情と見比べるように、視線を双方にやりながらもうやめなさいと小声で諭しておられましたが、その雰囲気から察するにその小集団を形成する男子児童達に手を焼いておられる様子でした。

その小集団は、私がインド人と揶揄した児童を指導する姿を一部始終見ていて、敵討ちを果たしたかったのでしょう。
素晴らしく増長した仲間意識です。
校外で、他人の大人にということは、つまり社会に対して何も恐れることなく対等に振る舞おうとすることです。
もしかしたら、その児童達は担任に対する思いやりや敬う気持ちを育てられるどころか、乗り越えてしまった不幸な境遇に位置していたのでしょう。

この事例はかなり極端ですが、前回述べた「子供同士の感覚を社会に持ち込まないこと」「子供たちが持っている対等意識は社会の中では思い上がりであることに気付かせること」が、つまりは自分の身を守ることであること。
いろんな意味で社会はもっと怖いものだということを経験してから学ぶのでは遅いのです。
事例の彼らも、もうすでにどこかで頭を打ったかもしれません。

学校という温室で自由奔放に、我が身の自由を謳歌している子供達の姿を多く見てきました。
私達社会人はもっと控えめに暮らしているという事実を、自分ではない人を尊重し、敬意を持って接している事実を、教室や学校で再現してみせることが必要だと思います。

その後2(黄金の一週間)

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