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姿勢を正させる

教室でノートに文字を書かせていると、背中が丸まりまるで寝ているような姿勢になっている子がいます。
そんな子に、今までどう指導されてきたでしょう。
目が悪くなるから姿勢を正すよう注意したことはないでしょうか。

あるいは、座りながらいすを斜め後ろに傾けて、シーソーのようにバランスをとっている子がいます。
そんな子には、危ないからきちんと座りなさいと指導されたことはないでしょうか。

これらの指導の仕方には、全く、他を意識させる観点も師弟の一線を引く観点もありません。

目が悪くなったり、危なかったりするのは事実ですが、それ以前に、教わる側として、先生に失礼な態度であるとの指摘が必要です。
いすに浅く腰掛けて斜めにもたれるような座り方、足を組む、貧乏揺すりをする、あご肘をつく。
すべて子供たちのとる様々な態度の悪さに対して、個別に逐一理由をつけて指摘しなくても、周囲や特に先生に対して失礼であるとの観点をしっかり教えることによって、指導の普遍化を図れるのです。

他を意識させる観点が抜け落ちていると、子供たちは身勝手な行動をとるようになります。
師弟の一線を引く観点が抜け落ちると、子供たちは平気で先生を乗り越えようとしてきます。



残念ながら乗り越えられてしまった経験の浅い先生からの相談事を紹介します。
それは、座り方など授業態度について、何度注意しても改まらないがどうしたものか、という相談でした。その先生は、腰を深くかけなさいや、丸まった背中を起こしなさいなど具体的な注意を繰り返していたそうですが、一向に改まらず、挙げ句の果てに机の横にはみ出して足を投げ出すようになってしまったとのこと。
その様子を、いくら注意しても態度を直してくれないのですと相談されたのです。

この相談事に対する解答の要点は三点。

まず「直してくれない」という表現に、先生が子供に対して態度を改めてほしいという依頼の気持ちが強くにじみ出てしまっていること。
次に、注意を繰り返してしまっていること。
さらに、そもそも注意をすることによって、善悪の価値判断を子供から奪ってしまっていることが指摘できます。


本来は、足を投げ出すような態度についてそれでよいのかと問い、子供自身に考えさせ答えさせる。
たったこれだけでよいのです


子供には考える力が備わっていますから、よほどの反抗心を露わにしない限り、良くないと答えるでしょう。
先生は「では、そうしなさい」と毅然とした態度で応じるだけです。

人は自ら考え、自ら決定したことしか実行しません。
もちろん、態度を直してほしいのではなく、本人の責任によって直さねばならないのです

それでも、繰り返すならば、自分で言ったことも実行できないのかと追及すればよいだけです。
先生から無理矢理押しつけられた善悪の判断ではなく、自らの判断なのですから、反抗のしようがありません。


こんな困った状態に陥らないために、

他を意識させる観点から、全員がしたらどんな光景が見えるかを考えさせ、自らの身勝手さに気付かせ
師弟の一線を引く観点から、教える教わる立場の違いに気付かせ


周囲にも特に先生に失礼だという感覚を育てることが不可欠だと思います。
 
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仮定形で叱る

前回では、担当学年以外の子供たちを指して、担当外という言葉や、学年の違う先生という言い方で、担任等と比べれば指導が入りにくい状況を説明してきました。
学校は、学校ぐるみで子供たちを育くむ場ですから、違和感を感じた読者の方もいらっしゃると思います。
しかし、現場に身を置く者として、理想は持ちつつも、現実に即した対応の必要性は身にしみてわかっているつもりです。

この項で述べることは、もしかしたら逃げ腰と受け取られるかもしれません。
しかしながら、なかなか難しい現実との狭間で、直球勝負の指導が、素直に受け入れられるとは限らない状況に鑑みて、この手法をご紹介します。
仮定形でと言うのは、その言葉通り、「もし~ならば」という注意の仕方です。

時として、人間関係が構築できていない担任外の子供たちが取る行動は、その背景や真実を見抜くことが出来ないものです。
いつも指導されていることなのか、全く指導されたことがないことなのかから始まり、ただふざけあっているだけなのか、いじめの延長なのかという深刻な場面まで。
見過ごすことは出来ないが、かといって、強く指導すれば反発されかねない。
反発されて、こちらが折れる結果になってしまえば、もしもそれがいじめの延長という深刻な場面ならば、いじめそのものを認める結果になってしまう。
そこを、緊急避難的に仮定形でかわしながら、その場面の収拾を図るのです。

いじめが疑われる場面ならば、反発されようが関係なく、強く出るべきですので、ここでは、専科授業等で教室移動をする際、廊下を何やらもめながら騒がしく歩いてくる姿で考えてみます。
もしかしたら、騒がしくしていると見えている子供は、その集団のもめ事を仲裁しているのかもしれません。
しかし、単に身勝手な行動をしているだけかもしれません。
そんなときの、「もしも、君がただ単に騒いでいるのであれば~」という形での注意です。

ただ単に、騒いでいたのであれば、素直にその注意を聞き入れるでしょうし、何か理由があったのなら、ただ単に騒いでいるわけではないことを説明するでしょう。
頭から、騒いでいると決めつけてしまうと、騒いでいるのではない、正当性があるのだという反発で、その集団のもめ事の火種に油を注ぐことになりかねません。
仮定形で注意しても、同じく反発してくる場合はありますが、そのときこそ、「だから、もしも~と、言っているのだ」と反発そのものに、正当性がないことを諭してやればよいのです。


また、生活指導上の指導場面で考えてみます。学校の現場には様々な生活指導上のきめ細かな決まりが古くから引き継がれるようにしてあるはずです。
たとえば、服の色合いや髪の毛の色合いなどですが、そういう身だしなみに関する決まりごとは、外見を縛られることに慣れていない近年の保護者世代の反発を買うことがあります。
外見に対する細かすぎる規定をなくしてしまえばよいだけのことですが、現場では現実的な本音より建前論が優先される場合も多いものです。
そんな、保護者と指導者側の価値観の違いが浮き出てしまうような場面で、この仮定形を使って指導するのです。

私が知っている事例では、地味な色合いの靴下を推奨している決まりがある学校で、明るい色合いを履いている子に担任外の先生が指導をしたところ、担任の先生には何も言われていないのにどうして関係のない先生に叱られなければならないのかという抗議があり、対応に苦慮したというものがあります。
こんな場面で、「もし、君が該当する決まりを知っているのに履いているのであれば~」と緩衝材をひとつ挟み込むことによって、知っているのにやぶることはいけないという決まりの本質的な問題として注意を促すことができますし、決まりは認識している以上守るべきだという道徳的価値観の根幹について抗議の余地はないでしょう。

1度は担任から指導されていること


そうは言っても、なかなか指導を徹底させることは至難の業です。
いくら検証を続けてもなかなか行動が改まらない子供や、検証されている場面、見張られていると感じる場面でのみ、形だけ繕うように態度を良くしている様子がうかがえる子供など、集団としての行動に、及第点を与えるまでには時間がかかります。
学校という狭い社会の中ですら、及第点を与えるには、いつも関わり深く指導をしている担任や、学年の受け持ち以外の先生方の協力は不可欠です。
指導初期の子供たちは、担任や学年担当の先生以外を関わりないと断定し、その先生に見られていようがいまいが、利己的な行動を取ろことが多いものです。

そのような受け身な姿に、警鐘を鳴らすためには、関わりのない先生をなくすこと。
言い換えれば、利己的な姿には、必ず注意をして改めさせようと、関わること。
つまり、学校ぐるみで指導を入れる必要があると言うことです。
そうすれば、学年担当から見えにくい部分での子供たちの行動を、改めさせることができます。

結構、律儀に子供たちには、学級担任や学年担当の先生というのは、指導されて当然、言うことをきかねばならない先生という認識がある反面、学年の違う先生の指導は、幾分入りづらいところがあるとも言えます。
だから、関わるための条件として、最低一回は子供たちが、担当の先生と意識する先生から、指導されていることが必要になります。職員朝礼を含め、全体集会の場などで伝えられる指導事項を、全く指導しない先生はいないでしょう。
しかし、普段、筆者が学年の違う子供たちに関わろうとするとき、頻繁に思うことがあります。それは、指導事項が守られていない子ども達姿に注意をしたとき、入りづらい様子に一度は指導されているのだろうかと感じること。指導の有無そのものを、疑いたくなるような態度を取る場合だってあります。何故なのでしょう。一度は指導されているはずなのに、指導したときに初耳だと言わんばかりの態度を感じてしまうのは。

原因は、二つありそうです。

まず、すでに述べましたとおり、指導されるとは、言いっぱなしではなく、きちんとその後の行動に指導事項が反映されているか、検証をすることです。
これがないと、学校ぐるみどころか、子供たちからしてみれば、学年を超えて指導をしてくれる熱心な先生を、口うるさい先生としか思いません。当然、指導も入りません。高学年になると、指導はしたものの、その後は何も言わない担任の姿を見て、先生も建て前と本音があるのだ。立場上指導しなければならないが、考え方は違うのだと、高をくくるくらいのしたたかさはあります。

次に、子供たちにとって、全体指導は、担当の先生ではない先生の指導ですから、幾分入りづらいのです。そこを、教室に戻って、繰り返しになっても良いから、担任から守るように話して、補完する。そして、守られているか検証するのですが、せめて、担任の言葉で補完されること。これが、抜け落ちていると、担任の先生は何も言っていないと誤解する、もしくは、そう信じる子供たちが出てきます。

しかし、現実はもっと切実で、生活指導担当の先生から、始業式や終業式と言った場で、全員に、例えば「廊下は公共の場であるから、しゃべらず静かに教室まで戻りましょう」と指導が入ったとします。しかし、残念ながら、その集会後に、教室へしゃべりながら戻る子供たちはたくさんいます。もちろん、その姿に注意する先生がほとんどですが、紛れて一緒になって、子供たちと話しながら戻る先生は、必ずいるものなのです。何とも情けない限りで、言語道断、話にもなりません。
全体的に指導された事項を、自分の言葉で反復して言い聞かせる。そして、指導事項が守られているか検証する。この必要性に気付くことが、学校ぐるみの指導を可能にする最低条件になります。

検証

さて、目の前で指示通りに動くことが出来ているか。
これは、一目瞭然です。

では、先生の目の届かぬ所で、先程の廊下を走ったり、騒がしくする事例にどう対処すべきでしょう。
特別教室への移動時や、始・終業式、学年集会などの集会活動から教室へ戻るときなどに、廊下でのしゃべり声が収まらず、うるさい状態になってしまっていることはよくあります。もちろん、それら集会活動の終わりには、静かに教室へ戻るように指示されているのです。
にもかかわらず、喧噪に包まれたような廊下を見るのは、情けなくなります。

なぜ、このような状況に陥ってしまうのでしょう。
それは、指示に対する検証活動がないからだと断言できます。


我々の出す指示に対して、それらが集団としてきちんと守られているか。
守ろうとしている子供の割合や、周りの雰囲気にのまれて付和雷同してしゃべっている子供の割合はいかほどか。
また、率先してわがまま勝手なしゃべりを行う、いわば指導が全く入ってない子供はどの程度か。
そのような集団の構成を把握しない所以なのです。

その集団の構成を把握する唯一の方法が検証を行うことなのです。

ですから、言いっぱなしの指導は指導ではありませんし、言いっぱなしの注意も注意ではありません。
指導や注意は、指導や注意をすること自体に意味があるのではなく、指導や注意が守られているか否かに意味があるのです。

よく耳にする指導、注意はしているのだが、なかなか子供たちは守ることが出来ないという逃げ口上的な物言い
指導したという既成事実を盾に、責任回避を行う教師の怠慢でしかありません。
それどころか、子供たちに先生の指示や注意は、その場だけ、はいはいと聞いていればよいと言う、大間違いの認識を持たせかねません。

具体的には、指導者一人で行うならば、指示を出した後すぐに先回りをし、廊下での様子を点検する。
学年等で、チームを組めるなら、中心指導者が、戻りの指示を出す頃合いを見計らって、戻りの動線上の任意の場所で待機する。そして、わがまま身勝手な振る舞いを見つけたら、その場で順々に捕捉し、集団すべてが通り過ぎた後、説諭を行う。
この点検作業を行う初めの頃は、頻繁に点検するのですが、徐々に回数は減らして、点検されているから、廊下を静かに通るという意識から、廊下は静かに通るものという習慣化を図っていくのです。
そのためには、毎回点検するのではなく、また同じ場所で点検するのではなく、できるだけ神出鬼没に行うことが効果的です。

生活規律を正すための指導や注意は、しなければならないときも数多くあるでしょう。
しかし、生半可な気持ちで一過性の声かけとしてすべきではありません。
一旦、注意の言葉を発したならば、必ず守らせなければならないのです。
どうしても、守らせきることができなかったならば、後日でもきちんと反省させることは、最低限必要です。

指導や注意は、伝達することに意味があるのではなく、守らせることに意味があるのですから

見逃さない

先生の言葉は、有言実行でなければならないことを述べました。
口先だけの脅しなど、もってのほかですが、次の場合はどうでしょう。

体育の時間を例に取ってみます。
駆け足で集合と指示する。
もしくは、体育の場所移動は駆け足が基本と日頃から指導していて集合と指示をする。

にも関わらず、全員ではないもののごく一部、歩いて集合する姿を見かける。ところが、先生は、ほとんどの子が駆け足集合していることに満足しているのか、二、三名の歩く姿に注意する様子もなく、全員が集合するのを待って話を始める。

さて、子供たちはどう感じますか。
この先、この学級で体育時、集合の仕方はどう変化していくでしょう。
おそらく、だらだらと歩いて集合する姿が微増していくでしょう。

それが、先生の目にとまるようになったら、二、三人ではなく、大勢の子供たちが叱責されることでしょう。
そこで、初めの二、三人が、先生を乗り越えているような子供でなかったら、また元通り走って集合する姿に戻るとは思います。
しかし、一定期間、先生の指示を守らずとも、見逃された無用の経験を積ませている事実は重いものです。

これは、指導者側の指示に対する責任感が、希薄であるから生み出される光景なのです。
根底には、まだまだ発達段階の幼い子供たちであるから、先生の指示や注意を、一回で聞けないのはやむを得なく、無理からぬことである。
こういった無用のものわかりの良さで、子供たちへの理解を示す。
しかし、それは単なる甘やかしでしかありません。
もしくは、先生側に指示や注意を、しっかり聴き取らせ、守らせるだけの力量が備わっていないからなのかもしれません。

もちろん、我々は機械ではありませんから、すべて網羅して、事に当たることは不可能です。
日頃から、廊下は静かにと注意はしていても、先生の目の届かぬ所では、やはり騒いでいる。これは、各自の良心に委ねられるところはあります。
これについては、次の『検証』の項で詳しく取り上げます。
しかし、少なくとも先生が直接指示を出し、目の前で展開される行動には、指示通りに動いているかを、確かめる必要があります。

そして、指示通りに動けていないのであれば、どんな些細なことでも見逃さない
気付いていて、見逃すのは以ての外、それは黙認です。
気づいていようがいまいが、指導者が黙っている姿を見て子供たちは許されたと理解します。

不注意に見逃してしまっても、見逃された当事者にとってみれば、許されたという印象を持つのですから、我々は自身の指示事項の徹底に厳しく責任を持つべきです
待ちの指導法

教室の壺

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