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理由の問い方


理由というのは、人の内側から語られます。
人の行動の理由を外側に求めている内は、言い訳です。
対して、内心や本音が吐露されたとき、それが理由です。

そのあたりの指導法を具体例で見ていきましょう。

誰かが誰かをののしったとしましょう。
指導者であれば、当然なぜののしったのかを問い質します。すると子ども達の多くは、「冗談で」と言うでしょう。
指導者は、冗談でののしってはいけないと諭し、謝罪させる。
これは、ずいぶんまずい指導です。

「冗談で」というのは、理由ではなく単なる事実説明です。
「ののしった」の前に「冗談で」という事実説明を付け加えただけです。指導者がここで納得して説諭を行ってくれれば、子どもにとってみれば、理由を明かさずに誤魔化したまますり抜けられるのですから、万々歳でしょう。

指導者は、「冗談で」というのは単なる事実説明であることを伝え、続けて理由を問います。すると、子どもたちは「おもしろ半分で」とか「からかって」とかいろいろと言うでしょう。
しかし、それらもやはり単なる事実説明で、たとえば「おもしろ半分にからかって冗談でののしった」と事実の説明が長くなるだけであることを伝え、尋ねているのは、なぜ「おもしろ半分にからかって冗談でののしった」のか、その理由つまり気持ちであることを伝えます。

そこまで追及されても、初めのうちは答えに詰まってしまうことがほとんどです。
そのため、できるだけ学級会の場を利用して、個別の事案を全体に返しながら、事実と理由の違いや、理由というのは自分自身の内面から語られるものに対して、自分以外のものに理由を求めている限り、それらは単なる言い訳、もっと言えば気持ちの誤魔化しに過ぎない ことを指導するとよいでしょう。

ここで指導者の求めているのは、「自分のことをバカにされたから」「無視されたから」などという自分の存在を否定されることに類する言葉です。
もしかしたら、初めは「誰々が嫌いだから」「誰々が憎たらしいから」などという人間の醜くどろどろした内面からにじみ出てくるような言葉が理由として語られるかもしれません。
確かに内面は語られているのですが、嫌うというのは現象で、嫌いになった理由を見つめさせなければなりません。相手のどこが嫌いなのかと、自分以外の言い訳に思考を導く問いも愚問です。

内面が語られ、真実が見えて初めて人は反省の入り口に立ちます。

ここで指導者が「バカにされたからといって、無視されたからといって」ののしってはならないと諭してはいけません。
ましてや間違えても、「誰々が嫌いだから」「誰々が憎たらしいから」といってののしってはいけないという指導でお開きにするなどは論外です。

お茶を濁すように諭す指導で終わりにしたいのであるならば、決して内面に秘められた本音そのものを語らせてはなりません。
ましてや、相手の友達がいる前で、話をつきあわせる形で嫌いだという内面を語らせて、嫌いだからといって暴力的な態度をとってはいけないと締めくくったのであれば、嫌われた者はたまったものではなく自己嫌悪の極みに落ち込んでしまいます。

どこが嫌いなのかではなく、何故嫌いと感じたのか。
どこが憎たらしいのかではなく、何故憎たらしいと感じたのか。


それはバカにされたり、無視されたりしたからかもしれない。
そうであるならば、バカにされたり、無視されたりすることによって自分自身の存在についてどう感じたのか。
つまり、自分の内側に潜む感情はどう変化したのか。
こうして内側へと思考を導くのです。
端的に言えば、相手に原因を求めている内は理由を語っていないのです。
理由というのは、相手のことに原因を求める思考ではなく、自らの内面に焦点化して自分自身の心情を深く掘り下げて初めて見いだされるものなのです。


そして、その上で初めて、そうであればののしるという行為は正当化されるのかと問うことになります。
もちろん、答えはそうであってもののしることは許されない。
されたら仕返してよい訳がないのです。

ただし、洞察眼鋭く嫌う本音の出所を見抜き、強者の残虐性が原因であると推測したならば、理由は指導者だけが聞くべきです。
人が動物として持ち合わせてしまっている弱肉強食の残虐性は、決して嫌われている本人には聞かせてはならない配慮事項だからです。
本人に聞かせてよいときは、嫌う社会的な理由が存在する場合だけです。
社会的な理由というのは、人と人が関わる中で生み出されてしまう摩擦やすれ違いのことです。

人が誰かを嫌いだとか憎たらしいと思う理由について表現方法は様々ありますが、真実はたった一つしかありません。何らかのもめ事があり、相手に抗議したが取り合ってもらえなかった。
反対に、馬鹿にされるなど理不尽な扱いを受けた。
また、反撃されてしまい暴力を受けたなどなど。

すべての根っこでつながる心情は、自分をないがしろにされたというものです。
自分というかけがえのない存在を無視されたり、存在そのものを否定するような理不尽は人には受け入れがたいものなのです。

人は、ここに気付いて初めて人に優しくなることが出来るのです。
人は弱いものだから、自分が大切なのだ。
そして、自分以外の人も、弱い存在なのだから自分が大切なのだ。

この真実に気付かせ、認めさせる過程そのものが、指導者の真の厳しさであり、もし日々起こる様々なもめ事を和解へ導く指導があるならば、この過程を経るしか方法はありません
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