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切れる子供に


『切れる』という言葉は、個人的に好まないのですが、激高の挙げ句、常軌を逸した振る舞いを行い、まるで人が変わってしまったような状態に陥っている様子を指すとします。
指導者がもめごとの聞き取りをしている最中に再度切れて、感情的になって相手をののしったり、けんか腰に態度を荒げて、汚い言葉を投げつけるといったことはよくあります。
そんな場合の対処法を考える前に、人が感情を荒げる理由を探っておく必要があります。


何故、人は怒りの感情をもつのか。 

これを諭すことは、次回からの子供たちの言動を適正に導くには欠かせないからです。
怒りは社会の中で自らの他者への期待値と、現実の値の開きによって引き起こされます。
期待を裏切られたという感情を、相手への不満として表現するのが怒りです。

怒りという感情の裏側に隠されているのは、悲愴、疎外、羞恥、無念等々の人にとって受け入れがたい感情や状況です。
どれも確実に自尊感情を崩壊させます。
その自尊感情を守るために人は怒り、不満をぶちまける。

暴力は、相手の存在を消すことによって、わが身の存在意義を担保する卑怯ではあるけれども人間の本能的な行動。
罵詈雑言を浴びせ相手の感情をずたずたに引き裂く行動もしかり。

もしも、人が山奥で独り暮らす仙人のように周りとのかかわりを一切断っていたとしたら、怒ることはまずないでしょう。
人は、一人では怒りにくいものなのです。
この事実を子供たちに伝えておくことは有意義です。

人は人に認めてほしい生き物なのだ。
だから、人は一人では生きていけない。社会を形成し、その中で自身の存在意義を認められるという形で確かめながら生きていく。
しかし、認められず追い詰められたとき、相手を攻撃してしまうことがある。
愚かだが、人は寂しく弱いのだと。 


こう諭すことによって、切れる子も寂しいという認識を育むのです。  周囲の理解は、環境を落ち着かせます。


さて、現実に戻ってどうしましょう。


一番まずいのは、切れている子供に叱る、怒鳴るといった指導者自身が腹を立てて挑発的な行動をとること。
先生も一緒になって切れていたのでは笑い話にもなりません。

次にまずいのは、指導者が切れている子に輪をかけて諭し、拘束力を持った指導をすること。

切れている状態というのは人が変わってしまっているのですから、何を言っても無駄なことは確かです。とは言うものの、つかみ合いの喧嘩になっているのならば、すぐさま止めなければなりません。
しかし、ただ切れいているだけならば、放っておくのがよいのです。
そして、わめいていたり悪態をついている間は放置。周囲にも関わらぬよう宣言してしまう。他の関係者に事情を尋ねるなど、するべきことは山ほどあるのですから。

しかし、本当は忙しいから、他にすべきことがたくさんあるから放っておくのではなく、その間に落ち着かせる目的があります。
先ほど述べましたが、怒りは他者との関係の中で生み出されるので、一人では怒り続けられません。

しばらくして、元の自分を取り戻してきたなと見て取ったとき、落ち着いたかと尋ねてやり、静かな口調で、具体例を挙げながら、常日頃はあんなに優しい仕草が見られるあなたが、さっきはいったいどうしたというのか。よほど腹に据えかねることでもあったのだろうと、寄り添いながら尋ねていけば、涙ながらに本当のことを語るはずです。

そして、すべての心情を理解し、必要に応じて、謝罪や和解を行った後、普段のあなたからは想像できないくらい、さっきの姿は恥ずかしかったと評価をしてやるのです。乱暴な姿を見せたのは、本当は寂しかったからだという感情を共有しつつ、人が変わってしまうような立ち振る舞いをすることは、恥ずかしいことであることも共通認識するのです。

この価値観も伝えられて初めてわかります。
私達の仕事は、人が相手ですから、相手が押してくれば引くという気持ちのゆとりは常に持ち合わせていたいものです。

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私も同じ文を書くが

 論旨賛同です。子供相手なら100%近く賛同ですが、歳とともに社会がそれぞれにあり、待って居ると取り返しのできない状況もあり得るのかもしれません。
 私は社会生活で切れる男と見られたいるでしょう。切れるとは管理人様の使っている意味であり、優秀と意味ではありません。
 何故切れるのか、むしろ2倍、いえ10倍反対を表現する手段なのでしょう。微分で感情を表現し、一部でも相手にこちらの評価を伝えたいからです。
 学校の年寄りを指導する仕事では極めて有効な、これしかない手法のように思えます。待って居たら先生は変わらないイシアタマの人がほとんどなのでしょう。
 校長など、そのような人種のなれの果てなのです。あさましい人種がおおいのでしょう。私は、10倍以上自分の感情を露骨に表現するのが、翻って生徒さんのためになる状況が教育界なのだと言うのが10年学校で大学で非常勤講師をした私の結論です。
 損得を考えるなら迎合すべきなのでしょう。でも陽明学の末裔を誇りにしている私にとって、身を削ってでも未来の庶民に貢献すべきと言うDNAがあり、如何ともできません。
 今日の記事の成り立たない状況が経験上であったはずです。そうでなければこのような正しいことを書けるはずがないのでは。
 管理人様にぜひ陽明学の本を読んでほしいのです。私のブログのコメント者に林田様と言う人がいます。彼の本を読むと、管理人様の教えを生かす上手い手法があるように私には思えたからです。私の損得はありません。

Re: 私も同じ文を書くが

kodera様
いつもコメントありがとうございます。
陽明学ですか、私には高尚すぎて到底ついていくことができませんが...
お教えくださりありがとうございます^^;
今後ともよろしくお願いいたします。

陽明学は簡単

 難しくありません。すでに管理人様はできていることです。論より先に実践できているのだからです。
 もっとも、この国の巷にある陽明学の解説は2000年以上に渡る隣の大国とこの島国の思想を解明しようとする難しい学問かもしれません。でも、今の言葉で言っていいなら、私にとって陽明学は簡単なことのように思えます。管理人様の教えの方が先生方にとって難しい実践のように思えるだけです。管理人様はできているからそのむずかしさが分からないのかもしれません。
 例えば、林田明大様は麻雀で学校を改革した事例を説明しています。私にもできそうです。要するに一言で言えば知行合一、行いの裏に認識あり、認識の後ろに心あり。心を高めたかったら、良知を積み重ねろと言うことでしょう。良知は難しい考え方かもしれませんが。
 私は、2か月ほど前のブログ記事では、法医学の大先生の事例で説明しています。法医学は必然的に陽明学になり、大先生でなくとも、熟達者にならざるを得ないのかも。
 もっとも倫理学の、私の親友の黒沢幸明先生は、日々の生活に真実あり、俗の中に誠ありと言っています。武士道は死ぬことでなく、刀を抜かないことにある、いあってたけからず、と言うのかも。また難しくなってしまいました。
 私は簡単に考えています。不届きものの私ゆえに、悪人なおもて往生とぐ、の親鸞や法然の教えに近い簡単な考え方です。要するに正しい生活をしていたら、仏教と儒教と道教の教えに至ると言うことでしょう。今ならモスリムもキリストも包含すると考えても良いのかもしれません。でも、西洋の哲学とは根本的に違うのかも。
 すでに管理人様は陽明学の熟達者だと私は考えています。管理人様が己の考え方を広めたいなら、教え方は、林田様でも伊藤仁斎でも中江藤樹でも、黒沢幸明の言葉でも良いと言うことだと私は考えています。私はいい加減な男だからでしょうが。
 私は管理人様の教えを小論と創造性とバドミントンの融合で実行して見せたいだけです。していると考えています。でも誰も信じてくれません。それでいいのです。それが陽明学だからです。
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