1度は担任から指導されていること
そうは言っても、なかなか指導を徹底させることは至難の業です。
いくら検証を続けてもなかなか行動が改まらない子供や、検証されている場面、見張られていると感じる場面でのみ、形だけ繕うように態度を良くしている様子がうかがえる子供など、集団としての行動に、及第点を与えるまでには時間がかかります。
学校という狭い社会の中ですら、及第点を与えるには、いつも関わり深く指導をしている担任や、学年の受け持ち以外の先生方の協力は不可欠です。
指導初期の子供たちは、担任や学年担当の先生以外を関わりないと断定し、その先生に見られていようがいまいが、利己的な行動を取ろことが多いものです。
そのような受け身な姿に、警鐘を鳴らすためには、関わりのない先生をなくすこと。
言い換えれば、利己的な姿には、必ず注意をして改めさせようと、関わること。
つまり、学校ぐるみで指導を入れる必要があると言うことです。
そうすれば、学年担当から見えにくい部分での子供たちの行動を、改めさせることができます。
結構、律儀に子供たちには、学級担任や学年担当の先生というのは、指導されて当然、言うことをきかねばならない先生という認識がある反面、学年の違う先生の指導は、幾分入りづらいところがあるとも言えます。
だから、関わるための条件として、最低一回は子供たちが、担当の先生と意識する先生から、指導されていることが必要になります。職員朝礼を含め、全体集会の場などで伝えられる指導事項を、全く指導しない先生はいないでしょう。
しかし、普段、筆者が学年の違う子供たちに関わろうとするとき、頻繁に思うことがあります。それは、指導事項が守られていない子ども達姿に注意をしたとき、入りづらい様子に一度は指導されているのだろうかと感じること。指導の有無そのものを、疑いたくなるような態度を取る場合だってあります。何故なのでしょう。一度は指導されているはずなのに、指導したときに初耳だと言わんばかりの態度を感じてしまうのは。
原因は、二つありそうです。
まず、すでに述べましたとおり、指導されるとは、言いっぱなしではなく、きちんとその後の行動に指導事項が反映されているか、検証をすることです。
これがないと、学校ぐるみどころか、子供たちからしてみれば、学年を超えて指導をしてくれる熱心な先生を、口うるさい先生としか思いません。当然、指導も入りません。高学年になると、指導はしたものの、その後は何も言わない担任の姿を見て、先生も建て前と本音があるのだ。立場上指導しなければならないが、考え方は違うのだと、高をくくるくらいのしたたかさはあります。
次に、子供たちにとって、全体指導は、担当の先生ではない先生の指導ですから、幾分入りづらいのです。そこを、教室に戻って、繰り返しになっても良いから、担任から守るように話して、補完する。そして、守られているか検証するのですが、せめて、担任の言葉で補完されること。これが、抜け落ちていると、担任の先生は何も言っていないと誤解する、もしくは、そう信じる子供たちが出てきます。
しかし、現実はもっと切実で、生活指導担当の先生から、始業式や終業式と言った場で、全員に、例えば「廊下は公共の場であるから、しゃべらず静かに教室まで戻りましょう」と指導が入ったとします。しかし、残念ながら、その集会後に、教室へしゃべりながら戻る子供たちはたくさんいます。もちろん、その姿に注意する先生がほとんどですが、紛れて一緒になって、子供たちと話しながら戻る先生は、必ずいるものなのです。何とも情けない限りで、言語道断、話にもなりません。
全体的に指導された事項を、自分の言葉で反復して言い聞かせる。そして、指導事項が守られているか検証する。この必要性に気付くことが、学校ぐるみの指導を可能にする最低条件になります。