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脅しは禁物


叱る という行為の範疇にも入らない行為なのですが、脅し に似た注意 の仕方を見ることがあります。

ただし、ここで言う脅しとは、子供を怖がらせる類の脅しではなく、出来もしない懲罰を与えることを口にすると言った、いわば、から脅しとでも言いましょうか、単なる口先だけの軽はずみな注意を指します。


具体例を示してみましょう。

悪ふざけなどを繰り返す子供に、

「つまみ出しますよ」

「廊下に立たせますよ」

と言ってみたり、授業中の態度の悪さに、幾度注意をしても改めない姿に業を煮やして

「もう勉強しなくてよろしい」

「教室から出て行きなさい」

と言ってはみるものの、実際にはつまみ出したり立たせたりという、具体的な懲罰的な行動は行わないという注意の仕方です。

問題点は、築けてもいない先生と子供の信頼関係が築けていると、勘違いをした甘えの構造の上に立っての注意であること。

勉強しないでよいとか、教室から出て行けと言っても、実際には出て行かないだろうという先生側の甘い読みが問題で、この部分が勘違いに当たります。
これでは子供たちに足元を見られてしまいかねません。

もっと言えば、先生が自ら自分自身の言葉を、軽く受け取ってもいいよ、というメッセージを出し続けていることに気づくべきなのです。

その言葉を実行すれば、体罰に当たったり、結局先生自身が困る内容であればもちろん、出来もしない軽はずみな言葉だけの注意は、厳に慎むべきことなのです。

子供たちにとって見れば、文字通り、脅し文句だけで行動が伴わないわけですから、そんな注意のされ方をしても、痛くもかゆくもありません。

もちろん、効き目もありません。

そんなことを繰り返す内に、反抗心が露わになり、先生の予想に反して、出て行けと言われたから出て行くという、強硬な手段に訴える子供が必ず出てきます。
その時になって、ふざけるなや授業中の態度を改めよという、再三繰り返される注意事は無視するのに、挙げ句の果ての出て行けという注意だけ、なぜ素直に聞くのかとぼやいてみても後の祭りです。


本来は、指導者が一度でも口にしたことであるなら、必ず実行されなければなりません。
第一、再三繰り返される注意の仕方そのものが、そもそも問題の始まりなのですが、それは別項に譲るとして、一旦、先生が子供につまみ出すと言ったのであれば、どんなに子供がいやがろうが、抵抗しようが、必ずつまみ出さねばならないのです。

もちろん、法的に問題のある内容を、口走ってしまったため、それを実行しなければならないというのでは、本末転倒、お粗末な限りですが。

それだけ、先生の言葉には重みがあり、軽はずみな感情の揺れによって、発せられるものではないことを常に戒めねばならないということ。
言ったことは必ずするという言動一致の重みがあって初めて、迫力を伴った指導力を発揮するのです。
その積み重ねは、やがて先生の言葉への、いや先生自身への信頼感となって子供たちから支持されるようになる筈です

止まらない匿名性のいたずらは


靴隠しから落書きまで、誰がやったかわからない匿名性のいたずらに困り果てた経験は、先生ならば誰にもあるはずです。
靴が隠されて見つからないまま、代わりの新しい靴まで隠されてしまうことだって平気で起こってしまいます。

あるいは、人権侵害の内容を含む落書きが執拗に繰り返され、良心に訴え、止めるように指導を繰り返しても、一向に止まないこともあります。

そして、保護者からは学級での指導を問われ、担任は八方塞がりの窮地に陥ることになります

相手が見えないだけに、直接的な働きかけはできません。こうういった解決の糸口さえ見つけることが困難な匿名性の行為に、どう指導してやめさせるか。筆者の経験の中から、抑止効果の高いものをお伝えします。

匿名性の真の意味を理解させるステップと、発覚したときの責任のとらせ方を知らせるステップの二段階に分けて指導をします。


初めのステップ!
匿名性の真の意味を教える。


匿名での行為は、単に対象の相手を傷つけたり、仕返しをしたりするにとどまりません。
被害者は、特定できない犯人を特定しようと身近にいる者をすべて、学級であれば学級全員を疑いの目で見なければならないのです。
被害者にとっては、誰も信用できない状態です。

加えて、無実であるのに疑いの目を向けられた無作為に抽出した一人についてはどうでしょう。
被害者からは疑われているが、あらぬ疑いをかけられた自分も被害者といえます。
そして、同じく自分以外の全員を、疑いの目で見ることになってしまいます。

これが学級の人数分、正確には真犯人の一人分を差し引きますが、全員に当てはまります。
いいえ、学級だけにはとどまらないでしょう。学級から学年へ、事と次第によっては学校へと疑いの連鎖は広がるはずです。
つまり、犯人以外の全員が全員を疑いの目で見る環境ができあがるのです。
もっと言えば、被害者の自作自演だって疑えますし、まさかですが、先生だってその気になれば疑うことはできるのです。

これは、誰一人として例外なく先生ですら疑うことのできるまさしく疑心暗鬼の世界といえます。

犯人にとって見れば、対象の相手に何らかの打撃を与えようと、匿名での嫌がらせをしたわけですが、その打撃は相手だけにとどまりません。関わりのある人間関係をずたずたに引き裂く卑劣極まりない軽率なその行為は、学級や学年といった関わりのあるすべての人間関係を、疑心暗鬼の世界に引きずり込んでしまいます。

まだまだ人生経験の少ない未熟な子供たちが、この真実を知る由もありません。


次のステップ!
発覚したときの責任のとらせ方を知らせる。


匿名性の軽率な行為を行う者のすべてが、バレないと信じています。
ここで、バレていないと思ってもこの世の中に一人だけ見抜く者が存在する。
それは自分であるとの価値観を伝えるのも一法でしょう。

しかしここではもっと強烈に、これだけの説明を聞き、自らの軽率さとその愚行の反社会性に気づいてもなお繰り返すならば、発覚時には真犯人であるあなたの名前を、こういう集会の場で公表する用意があると宣言するのです。
実際に発覚した場合、宣言通りに公表できるか否かは、個別の事案によりますが、具体的な責任のとらせ方を予め知らせることにより、抑止の効果をねらうのです

もちろん、改心して密かに名乗り出た場合には、その情報は守秘することも伝えます。
それは、安心して名乗り出てよいという意思を伝えるというよりも、それほどに羞恥の愚行であり、打ち明けて謝っても簡単には許される行為ではないこと。
なにより被害者は多数に上っており、直接物理的な被害を受けた相手だけに謝罪をしても意味がないこと。
精神的な被害者は真犯人のあなた以外の全員であり、もし謝罪するならばこのような集会で壇上に立つ必要があること。

それは真犯人のあなたにとっても、あまりにもつらい状況であり、そういう状況は人にとって耐えがたいことである。

だから事実上謝罪は不可能であること。

つまり、謝りようのないことをしてしまっているという事実を強烈に印象付けるという意図も含ませて、名乗り出た場合に我々が守秘する意味を伝えるのです。

これら一連の諭しの狙いは、ただ一点。
現在継続中の匿名性の軽率な行為を止めさせることです。
正直さを求めて、名乗り出やすい環境を整備する目的はありません


それは、経験上からこういう匿名性の事案で名乗り出てきたためしは皆無に等しいこと。
名乗り出て、被害児童と加害児童を面会させ謝罪させても、先ほどから述べた理由で意味がないことに加え、たとえ謝罪させて表面上の人間関係を修復させたと指導者側が勘違いしても、やはり怨恨は増幅してしまうことが容易に想像できるからです。

それほど取り返しのつかない愚行を続けてしまっているという事実に対して、この公表する用意があるという宣言を、単なる脅しと捉えさせないためには、日頃から生起する様々な生活指導上の問題を、学級や学年全体に出来うる限り実名を挙げて返しながら、みんなに知らせて全体で考えて行く姿勢を培い、集団思考の素地を築いておく必要があります。

切れる子供に


『切れる』という言葉は、個人的に好まないのですが、激高の挙げ句、常軌を逸した振る舞いを行い、まるで人が変わってしまったような状態に陥っている様子を指すとします。
指導者がもめごとの聞き取りをしている最中に再度切れて、感情的になって相手をののしったり、けんか腰に態度を荒げて、汚い言葉を投げつけるといったことはよくあります。
そんな場合の対処法を考える前に、人が感情を荒げる理由を探っておく必要があります。


何故、人は怒りの感情をもつのか。 

これを諭すことは、次回からの子供たちの言動を適正に導くには欠かせないからです。
怒りは社会の中で自らの他者への期待値と、現実の値の開きによって引き起こされます。
期待を裏切られたという感情を、相手への不満として表現するのが怒りです。

怒りという感情の裏側に隠されているのは、悲愴、疎外、羞恥、無念等々の人にとって受け入れがたい感情や状況です。
どれも確実に自尊感情を崩壊させます。
その自尊感情を守るために人は怒り、不満をぶちまける。

暴力は、相手の存在を消すことによって、わが身の存在意義を担保する卑怯ではあるけれども人間の本能的な行動。
罵詈雑言を浴びせ相手の感情をずたずたに引き裂く行動もしかり。

もしも、人が山奥で独り暮らす仙人のように周りとのかかわりを一切断っていたとしたら、怒ることはまずないでしょう。
人は、一人では怒りにくいものなのです。
この事実を子供たちに伝えておくことは有意義です。

人は人に認めてほしい生き物なのだ。
だから、人は一人では生きていけない。社会を形成し、その中で自身の存在意義を認められるという形で確かめながら生きていく。
しかし、認められず追い詰められたとき、相手を攻撃してしまうことがある。
愚かだが、人は寂しく弱いのだと。 


こう諭すことによって、切れる子も寂しいという認識を育むのです。  周囲の理解は、環境を落ち着かせます。


さて、現実に戻ってどうしましょう。


一番まずいのは、切れている子供に叱る、怒鳴るといった指導者自身が腹を立てて挑発的な行動をとること。
先生も一緒になって切れていたのでは笑い話にもなりません。

次にまずいのは、指導者が切れている子に輪をかけて諭し、拘束力を持った指導をすること。

切れている状態というのは人が変わってしまっているのですから、何を言っても無駄なことは確かです。とは言うものの、つかみ合いの喧嘩になっているのならば、すぐさま止めなければなりません。
しかし、ただ切れいているだけならば、放っておくのがよいのです。
そして、わめいていたり悪態をついている間は放置。周囲にも関わらぬよう宣言してしまう。他の関係者に事情を尋ねるなど、するべきことは山ほどあるのですから。

しかし、本当は忙しいから、他にすべきことがたくさんあるから放っておくのではなく、その間に落ち着かせる目的があります。
先ほど述べましたが、怒りは他者との関係の中で生み出されるので、一人では怒り続けられません。

しばらくして、元の自分を取り戻してきたなと見て取ったとき、落ち着いたかと尋ねてやり、静かな口調で、具体例を挙げながら、常日頃はあんなに優しい仕草が見られるあなたが、さっきはいったいどうしたというのか。よほど腹に据えかねることでもあったのだろうと、寄り添いながら尋ねていけば、涙ながらに本当のことを語るはずです。

そして、すべての心情を理解し、必要に応じて、謝罪や和解を行った後、普段のあなたからは想像できないくらい、さっきの姿は恥ずかしかったと評価をしてやるのです。乱暴な姿を見せたのは、本当は寂しかったからだという感情を共有しつつ、人が変わってしまうような立ち振る舞いをすることは、恥ずかしいことであることも共通認識するのです。

この価値観も伝えられて初めてわかります。
私達の仕事は、人が相手ですから、相手が押してくれば引くという気持ちのゆとりは常に持ち合わせていたいものです。

「やられたら、やり返えせ」にどう対処するか

やられたらやりかえす。
報復や復讐といったいわゆる仕返しを正当化する場合への対処法です。

言われたから、言い返した。
叩かれたから、叩き返した。
特に前者の場合は、正当な場合もあるでしょう。

しかし、一般に暴力の場合、報復には負の連鎖がつきもので、最終的には殺りくまで行き着きます。
もちろん、子供たちの世界でそこまで連想することは無意味に近いですがないとは言い切れません。
とにかく、やられたらやり返してもよいという価値観は、日常茶飯事に顔を出します
家庭で、この価値観に保護者がお墨付きを与えてしまっている場合もあります。
そういう間違ったしつけを受けて育ってきた場合は、悪びれず報復に出てはばかりません。

更に、やられたから仕返したと、自分の行動を正当化してしまっている場合は、仕返しという身勝手な大義の下、受けた暴力以上に輪をかけて攻撃してしまっていることもよくあります。単に言いがかりをつけ、一方的な暴力を仕返しと銘打って、粗暴な行動を繰り返す場合だってあり得ます。

なぜなら、暴力行使は強者の論理だからです。
仕返しもそれが暴力である以上、強者にしか行使できないのです


暴力的に強い立場の者が弱い立場の者に対してしかできないのが、やられたらやり返してよいという暴力的な仕返しの本質であり、弱者が強者に暴力的な仕返しを制裁として加えられるわけもありません。

保護者の間違った価値観の下のしつけはやっかいです。

また、そういう価値観の下に育てられた子供たちは、自らの行為に正当性を認めていますから、謝ることに抵抗感を持っていることが多いものです。
この抵抗感がある以上、和解は難しくなります。
そこで、「やられたら、やり返えせ」と教えられている事実を逆手にとって「謝られたら、謝り返せ」という価値観を追加するのです。それが仕返しと銘打って行使したと主張する暴力ならば、その仕返しの原因だと主張する部分について、本来謝罪の必要もないと思える弱者側が真の勇気を発揮して、たとえばそこの部分は自分も悪かったと謝ったならば、自らの行使した暴力行為を恥じて謝るのは人として当然でしょう。
暴力を背景にした強者は卑怯者ですが、和解を選択すべく謝意を表す強者は勇者です。

やられてやり返すことを認めるわけにはいかないが、それを主張するならば、最低限「謝られたら、謝り返す」ことも条理であると説くのです。

さて、この条理の教え先ですが、子供にはもちろん保護者にも教える必要があります。
やられたらやり返すことをまるで権利といわんばかり一徹に主張する保護者を変えることは難儀を極めます。
間違った価値観を認めてしまってはいけませんが、大人の意識変革は一朝一夕になせる技でもありません。

そこで 「やられたら、やり返す」を権利として子に教えるならば、
「謝られたら、謝り返せ」と教えるのも親の義務であり責任
ではないかと説くのです。

学校と家庭が真逆のことを教え続けたら、おそらく子供は家庭の教えを選択します。
子供たちに伝える内容は、保護者も納得出来るものであることが望ましいことは当然です。
根本的な解決には、個人の意識の変革を待たねばならず相当の時間がかかるとして、当面の対処としての付加価値は大きいと思います。

させようとしたことは叱らない

「会話を成り立たせる」項で、言い訳や理由があったら言えるという雰囲気を醸し出しながら叱ると申しました。しかし、よくない言動をしてしまった時に、何某の理由を述べたら余計に叱られてしまったのでは、次回から自分の頭で考え反省をすることに抵抗感を持たせてしまいます。

たとえば、友達を叩いてしまった子がいるとしましょう。
指導者であるならば、必ず理由は問うでしょう。
いや、理由など問う必要はない。
暴力は絶対に認められるものではないから、理由の如何を問わず叱るべきだとは言えないでしょう。

確かに、暴力をふるったという事実関係は決して許されずその通りなのですが、それでは、ひどい罵りや挑発的な言動に堪りかねての暴力に対する指導ができていないことになります。
暴力的な行為を止めて行くには、理由を聞き、たとえひどい罵りや挑発的な言動が相手にあったとしても、心情的には十分理解できても、それでも暴力は許されないものなのだという諭しが必要なのです。

とはいうもののそういう情状酌量の余地がある場合ばかりではありません。
どうして暴力をふるってしまったのかという先生の問いに対して、子供は未熟ですから、理由として心情的に寄り添えない身勝手な論理を振りかざす場合があります。

しかし、そこは決して叱ってはならないのです。反対に、きちんと理由として自分の考えを言えたことを誉めるという形で評価してもよいくらいの場面なのです。

いくら身勝手で自己中心的な理由であれ、先生の問いに対して答えた理由であるならば叱ってはならない。
何故なら、叱れば次回からは確実に何を問われても口を閉ざすからです。会話が成り立たなくなれば、指導のしようもありません。

現実には、このポイントで叱る先生は多くいます。
中には感情のおもむくまま、あるいは子供の語る身勝手な論理をじっと耐えて聞く内に、たまりかねて激高し子供を怒鳴り散らす。これでは、先生自ら会話を成り立たせていないことになります。
暴言暴力で話し合いを止めてしまうのは、民主的にはほど遠い行為です。

更に何故そう言うことをしたのか正直に言ってごらんと問われて、やっと正直に胸の内を語ったらひどく怒られてしまった。

この経験を積ませることは、如何にもまずい。

いくら納得のいかない稚拙な理由であれ、その地点でその子供の本音に近い心情を、問うた先生に信頼を寄せて語ったのです。
そして、語られた言葉から読み取れる事実は、その子の現実であり、その子が今正しいと思っている価値観そのものなのです。

そこを叱れば、ましてや逆鱗に触れたならば、そこから子供たちは何を学ぶでしょう。
正直に語れば先生に突き放される。
自分の主張は認めてもらえなかったし、先生は自分のことをわかってくれない。
ましてや、先生が言えと言うから言ったのにと、そう思わないでしょうか。

指導者である先生自ら、子供たちからの信頼をなくさせているのです。
少々、皮肉っぽく言ってしまいますが、どうせ怒るつもりであるならば、理由など聞かず頭ごなしに怒ってしまった方が後々に尾を引きかねない悪影響は少ないかもしれません。
待ちの指導法

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